歌いつつ
主と共に歩む
驚くばかりの恵み
リアル放蕩息子放浪記⑤
読者の方々に前もって言っておくが、キリスト教は御利益宗教ではない。信仰を持っていれば、家内安全、五穀豊穣、無病息災、商売繁盛、子孫繁栄などなどを保証するものでは決してないのだという事をしっかり頭に入れておいてもらいたい。しかしながら、私たちの「主はあわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。」(詩編103:8)という事もまた聖書に書かれている通り全くの真実である。新しい年を迎えた読者の皆様が、主のあわれみ深さと恵みの豊かさを体験する1年となることを願いつつ。
2006年のクリスマス、私は救い主キリストを信じて救われた。月曜日の朝、三日間お世話になった教会を出て行く時は、何か憑き物が取れたような実に清々しい、軽やかな心持ちであった。それはまるで新しいパンツを履いたばかりの正月元旦の朝のような気分である。気分だけではない。ここから本当に神様はおられるのだと確信させられる事が起こってきた。ここからは、ダイジェストで神様の恵みを書いていくことにする。
まず教会を後にしたその日の午後、最後の会社の面接に行き、その場で正社員としての採用が決まった。あれほど苦戦していた就活があっけなく終わったのだ。新しい会社での勤務は年明けの1月からであった。ここでも驚きの連続であった。出社は9時、退勤は夕方5時なのである。前職ならば半日出勤の勤務時間だ。つまり毎日が半日出勤みたいな感覚なのだ。おまけにお昼には1時間の休憩があり、それ以外にもお茶をしたりする小休憩もあった。ゆっくり昼食を取った記憶などほとんどなかった私にとっては、これも驚きだった。また、会社から援助を受け、資格を取得することも出来た。これにより給料を少しであるがUPしてくれたことも有難かった。何を当たり前の事をと思う読者もいるだろうが、私にとってこれらの事は決して当たり前ではない。それまで超超超絶ブラックな職場で働いていた私にとっては信じられないほどの優良な職場環境なのである。
職場の人間関係の中にも神様の守りを感じる瞬間があった。会社の同僚との人間関係は概ね良好であったが、一人だけ、Sさんと言うちょっと苦手な先輩がいた。このS先輩は、何かにつけてネチネチ嫌味を言って絡んでくるちょっとだけ結構面倒くさい先輩であった。ある日の休憩の時に、「城市君さあ~、教会行ってるんでしょう?だったら当然聖書も読んでるんだよねぇ?ヨブ記とか当然読んだ事あるよねぇ?」と絡んできた。おそらく、S先輩は教会に通い初めて3週間くらいであった私を「お前、そんなことも知らないの?」という感じでバカにするつもりだったのかも知れない。ところが、その当時、八王子教会の日曜礼拝の説教はヨブ記の講解説教であった。私はこの時、聖書66巻の中で、むしろヨブ記しか読んだ事がなかった。私はS先輩に「ヨブ記ですか、読んだ事ありますよ!ヨブ記って面白いですよね~。最初○○で、それから、かくかくしかじかで・・・」と一通り内容を話してあげた。その日以来、S先輩はあまり絡んでこなくなった。ハレルヤ!
信仰生活においても充実したものであった。毎週日曜日の礼拝の他に、火曜礼拝、水曜日の祈祷会、平日に行われる結婚講座などの諸集会への参加は私にとって大きな楽しみであった。この年、初めて全国聖会にも参加が出来た事も感謝であった。教会の礼拝とはまた一味違うダイナミックな集会に大いに感動した。仕事も信仰生活も本当に充実した毎日を過ごしていたのである。
そんなある日、仕事でお世話になっている方から仕事帰りに食事に誘われた。食事自体は楽しいものであった。仕事の事やプライベートの事、果ては教会の事などを一通り話し終わった所で、その方がおもむろに話を切り出してきたのだ。その話は結論から言うと「今の会社を辞めて、ウチの会社に来ないか?」という事だ。いわゆる引き抜きである。まだ業務経験半年ばかりの新米である私を引き抜こうなどというのだから正直驚いた。聞けば、その会社では次年度から新しい部署が立ち上がるそうで人材を集めているのだと言うのだ。そこで、ある程度でも業務経験があり、また人となりが分かりコミュニケーションが取りやすい(悪く言えば、あごで使えそうな)人材をリクルートしているそうなのだ。現にその場にいた数人もすでにその会社に転職する話になっていたそうであった。その場で提示された報酬や業務内容は中々魅力的なものであったが、現在勤めている会社に対する後ろめたさもあり、私はすぐには返事が出来なかった。しばらく考えてみるという事でその日は解散となった。
それからも何度か会って話を聞いた。「そんなに気にする事じゃないよ。よくある話だよ。それに、会社を変わることは悪いことじゃない。むしろキャリアアップする良い機会だよ。成長のチャンスなんだよ。・・」こんな言葉を聞いているうちに、すっかり心が傾いてしまった。そして私はこの申し出に応じる事を決めてしまったのだ。しかし、次の日から、同僚たちの顔をまともに見る事が出来なくなってしまった。別に何か悪い事をしているのではないとは思うのだが、何か自分が周囲の人たちを裏切っているような、後ろめたい気持ちであった。社長に退職届を持っていった時などは本当に辛かった。社長の悲しそうな顔は今でも忘れられない。私にとってその会社は神様の憐みで与えられた職場だと信じていたし、社長を始め会社の人達は右も左も分からない私にとても良くしてくれた。それにも関わらず、何か恩を仇で返すような本当に申し訳ない気持ちであった。退職の日まで、せめてもの罪滅ぼしと思って精一杯働いた。そして、その年の暮れに退職した。
後味の悪い思い何となくモヤモヤした思いを抱えながら、次の会社で働く準備などをしていたそんな時である。私のモヤモヤした気持ちを知ってか知らずか、今ではすっかり同じ教会に通う兄弟分となったR君が年末のユース賛美集会に一緒に行こうと誘ってくれたので何の気なしに参加することにした。働いている時は、平日にある集会には中々参加する事が難しいが、無職だとこういう時は自由に参加出来てとても良い。その日の賛美集会は何か不思議な雰囲気が漂っていた。それまで、あまり積極的に祈らないような私でも思わず祈りたくなるような雰囲気なのである。それは私だけではなかった。その場にいた恐らく全員が感じていたのではないだろうかと思う。司会者が2曲ほど賛美をした所で、誰かが祈り始めた。それに合わせて周りの人達も祈り始めた。祈りは会場全体に広がり、止まらなくなってしまった。ある人は理解できる言葉で祈っていた、またある人は聖書の御言葉を言っている人もいた、またまたある人はよく分からない言葉で祈っている(聖書では異言という)人もいたのである。立ち上がって祈る人もいれば、跪いて祈る人もいる。その時、私はそういう集会に出るのは初めてで、少々戸惑っていたのもあり、会場後方の隅っこで静かに祈っていた。
しばらく経った時である。誰かが私の近くにやって来て、私に手を置いて祈り始めた。そのうちに次から次へと人が集まり、それぞれに私に手を置いて祈りだした。私の周りにはすっかり祈りの輪が出来上がっていたようである。ここで私は不思議な体験をした。ある一人の方が言った御言葉がはっきりと聞こえた。「・・求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。・・」(ルカの福音書11章9節)である。私は正直な所、何を求めたら良いのか分からなかったのだが、この御言葉が私の心に響いたように感じた。私は心の中で「何か分からないけれども、神様が私の人生にとって必要なものを与えようとしておられるならば、それをください!」と祈った次の瞬間。私は全くの静寂に包まれた。周りの人達の祈りの声は確かにあるはずなのだが、全く何も聞こえないのだ。もしかしたら眠ってしまったのか、気を失ってしまったのかも知れない。自分の体が倒れているのか、座っているのか、立っているのかも分からない。フワフワしている感じである。それは気持ちの悪い感じではない、むしろ心地良い、平安な感じなのだ。
その時、おそらく直ぐ横にいたのであろうR君の声が聞こえてきた。「あれっ?城市、異言で祈ってね?」この一言で私は夢見心地の世界から現実世界に戻ってきた私は驚いた。自分の口から止めどなく発せされている何語だか全く分からない言葉を自分の耳で聞いているからである。中々、理解が追い付かない状況であった。その集会後に牧師が一緒に幾つかの聖書箇所を解き明かしながら先ほどの「なんじゃこりゃ!」な出来事について解説をしてくれた所によると、私はこの時、聖霊のバプテスマを受けたようであった。私の人生において、それまで体験した事のない実に不思議な体験であった。神様に求めた結果与えられたこの体験が、一体この先何に役に立つのかは、この時の自分には、まだよく分からなかったのである。
次回はいよいよ最終回!
「十字架の道」
感想・コメントはこちらに♪