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聖霊の炎を掲げて㉗

日本の初期ペンテコステ運動と
レオナード・W・クート


鈴木正和 
中央聖書神学校講師
水場コミュニティーチャーチ牧師

レオナード・クート Leonard Wren Coote [1891-1969]
エスター・クート Esthter Ione Coote [1898-1962]

レオナード・クート
【『Japan and Pentecost』 (January 1933), 2.】
エスター・クート
【1919年6月のパスポート申請書(ancestry.com)】

はじめに

  英国人のレオナード・W・クートは1913年10月に宣教目的ではなく速記者として仕事で来日するのですが、日本で信仰を持ち、聖霊体験をし、神様の召しに応じて1918年から1939年、そして戦後1950年から1967年までペンテコステ派の宣教師として日本で幅広く活動します。1907年に日本にペンテコステ信仰がもたらされてから10年ほどは日本で聖霊体験をする人は少なく、1910年代後半からはクートの働きを通して多くの人たちが聖霊体験をしました。

 クートは当初教団教派ではなくthe Assembly of Godというペンテコステ派宣教師ネットワークに所属し、その後はthe Pentecostal Bands、 the Pentecostal Bands of the Worldに所属し、後にthe Japan Apostolic Mission・日本ペンテコステ教会を創設します。クートはワンネス・ペンテコステ派のthe Pentecostal Assemblies of Jesus Christやthe United Pentecostal Churchなどとも親密でした。他にもBethel Temple、the Church of God (Cleveland)、the Apostolic Church of Pentecostなどとも親交を持ちます。クートは健筆で発行・編集人として1920年9月から『Japan and Pentecost』を発行するだけでなく、海外の多くのペンテコステ派の新聞に寄稿し、海外のペンテコステ派内でも名の知れた人でした。特にワンネス・ペンテコステ派の新聞にクートの名が多く散見されます。近代ペンテコステ運動の初期のリーダーであったチャールズ・パーハムの『Apostolic Faith』(Baxter Springs, KS)の日本のただ一人購読者で寄稿者でもありました。

 私たちは今でもクートの著した『不可能は挑戦となる』によって戦前の日本のペンテコステ運動の様子を垣間見ることができます。邦訳の巻末のクートの略歴には、クートは1969年2月22日に米国テキサス州サンアントニオで「前進」と叫びつつ亡くなられたとあります。クートの日本での働きはどのようなものだったのでしょうか。

レオナード・W・クート著 兼田儀訳
『不可能は挑戦となる』
(生駒聖書学院、1981年・2001年)

神戸の会社員時代(1913―1918)

1913年頃の
英国のクート家

【Paul Tsuchido Shew, “History of the Early Pentecostal Movement in Japan: the Roots and Development of the Pre-war Pentecostal Movementin Japan(1907-1945),” 136.】

    レオナード・W・クートは1891年4月22日に英国の北ロンドンのメソジスト派の家庭に6人兄弟姉妹の長男として生まれます。商業高校を卒業後に英国で数年間速記者として働き、1913年10月に22歳で英国の石鹸会社の神戸支社で働くために来日します。来日前にはメソジスト教会で滴礼を受けていましが、来日当時は名目的なクリスチャンでした。神戸では神戸ユニオン教会のJ. B. ソートン牧師が管理する宣教師住宅に住みます。そこで彼は信仰熱心なソーントンや他のクリスチャンたちと出会い、彼らから強い影響を受け1914年2月に確かな信仰を持ち、神戸のバプテスト教会で浸礼を受けます。当時の神戸には元日本伝道隊宣教師で英国帰国中に聖霊体験をした英国のペンテコスタル・ミッショナリー・ユニオン(英国アッセンブリー教団の前身)宣教師のウィリアム・テーラー夫妻がいました。クートは彼らとの親交を深め、テーラー夫人の影響もあり1917年11月にテーラー夫妻の家で聖霊体験をします。

     聖霊体験をした後のクートはとても伝道熱心で、毎日の通勤前後に救世軍や東亜宣教会などから購入した大量の伝道トラクトを街頭で熱心に配りました。彼の1日のノルマが2000部だったいいます。クートはそれだけではなく家の近くに伝道所を設け、この働きを日本伝道隊が日本人伝道者を送って支援します。また神戸の中心街にも伝道所を開きました。

独立ペンテコステ派宣教師時代(1918-1920)

    宣教師の召命を感じたクートは1918年9月に会社を辞めて、アフリカのベルギー領コンゴで活動する英国アッセンブリー教団のウィリアム・バートン宣教師を助けるためにアフリカに行くことを決心します。しかし第一次大戦のためにアフリカに行くことが不可能になりアフリカ行きを断念します。御心を求めてテーラー夫妻の家で祈っている時にクートは「Japan and Pentecost Until Jesus Comes」(イエスの再臨まで日本とペンテコステ)という神の声を聞き日本に留まって福音宣教に専心することにします。

 仕事をやめてフリーになったクートは独立宣教師として神戸や大阪のみならず、東京をはじめ日本各地のペンテコステ派の宣教師の招きに応じて巡回伝道し、各地で大いに用いられます。彼の働きを通して多くの聖霊体験をする人たちが次々と起こされました。1919年の春にはクートは東京のカール・ジュルゲンセンの教会でメッセージを語るのですが、その際にカール・ジュルゲンセンの娘のマリアとアグネスが聖霊の充たしを受けています。

 横浜のモーア夫妻が1918年6月に休暇帰国する際にはクートが彼らの留守を守り、1919年3月に茨城県古河のグレイは夫人が体調を崩したために彼らの働きをクートに委ね帰国します。クートは巣鴨の同労者の朝倉敏の家に居住し、古河や横浜の働きを支援します。クートは1920年10月に神戸のテーラー夫妻のもとで1919年から女性救済活動をしていた米国シアトル出身のエスター・キーンと結婚し大宮に住みます。

ニュー・イシュー(ワンネス論争)

 この頃世界のペンテコステ派の中でニュー・イシューと呼ばれるワンネスの神観を持つペンテコステ信仰が大きな問題となっていました。先に「聖霊の炎を掲げて」⑲㉖でもこのことについて言及しました。1910年代後半の⽇本在住の独⽴ペンテコステ派宣教師たちも、このニュー・イシュー論争に巻き込まれ混乱の中にありました。⽇本で宣教活動を始めたばかりのクートは他のペンテコステ派宣教師たちから「恵みの働きは何段階なのか」と彼の依って⽴つ神学を問われます。クートは一晩考えて、恵みの働きが何段階かではなく、1)すべての罪から潔める主イエス・キリストの血、2)使徒行伝2章4節に記されている通りの聖霊のバプテスマ、3)イエス・キリストの再臨、4)聖別された生活をする必要と答え、この答えが他のペンテコステ派の宣教師たちに受け入れられたといいます。

 妻のエスターは米国シアトルのオフィラーのベテル・テンプルの出身で、オフィラーは三位一体の神観は否定しませんが、洗礼方式は “in the name of the Father, and the Son, and the Holy Ghost, the Lord Jesus Christ”「父御子御霊、すなわち主イエス・キリストの名による」洗礼方式をとっていました。クート夫妻もこの洗礼方式を用いていたようです。

 クートは宣教開始当初に日本でAssembly of Godという緩いネットワークに所属していましたが、1920年に米国アッセンブリー教団日本支部が設立され三位一体の神観を明確にした日本ペンテコステ教会が設立されると、アッセンブリーの群れを離れて独立宣教師となります。

横浜での働き(1921−1923)

 1920年10月に大宮に移ったクート夫妻は1921年秋頃から1922年末まで日本語の習得に精力を使います。クートとエスターの間に1921年9月に長女のフェイスが軽井沢で生まれ、クート夫妻は1922年には横浜に落ち着き、そこで天幕集会を中心に活動し一つの群れをなします。1922年12月には長男のディビッドが横浜で生まれます。横浜でさまざまな迫害を体験する中でクート夫妻は教会を立ち上げるだけではなく、1923年の秋には聖書学校の開設も視野にありました。戦後、京都の七条基督教会を開拓した内村誠一はクートの働きを通して信仰を持ちこの聖書塾に入学を決めていました。しかし1923年9月1日の関東大震災によって横浜が壊滅状態となり、クートたちは軽井沢に避暑中で難を逃れますが、横浜での活動拠点を全て失います。そのためクート夫妻は10月半ばに数名の弟子たちと共に関東を去り大阪に移り住みます。横浜でクートのもとで信仰をもった人たちの中には内村誠一の他に戦前滝野川聖霊教会に加わった小川裕や戦後内村誠一と共に日本アッセンブリー教団の加わった沖千代などがいました

横浜の天幕集会

【L. W. Coote, Twenty Years in Japan (Japan Apostolic Mission, 1933), 96と97の間。】

横浜の天幕集会の子供たち

【L. W. Coote, Twenty Years in Japan (Japan Apostolic Mission, 1933), 70と71の間。】

関西での働き(1923−1939)

 大阪に移ったクートたちは遊郭で有名な大阪の飛田地区で伝道を開始し、聖書学校も開設します。鹿児島の実家に戻っていた内村誠一はクートの招きを受け、父の反対を押し切ってこの聖書学校に入ります。クートと彼の仲間たちは市岡、萩之茶屋、玉造、生野、猪飼野などで伝道し、奈良、桃山、京都にも同労者がいました。1925年5月には次女ルースが大阪で、1927年には三女のメアリー・アンが生まれます。

ペンテコステ猪飼野教会
【『Japan and Pentecost』(May/June 1933), 4.】
1927年頃のクート家
【Japan and Pentecost (November 1927), 3.】

 1924年に1000ドルの献金が捧げられるとクート夫妻は聖書学校のための土地を奈良県生駒に取得し、新たな聖書学校の開設に向けて動き出します。1927年末にクートは聖書学校建設資金求めて渡米し北米の教会を回ります。そしてそのまま足を母国英国まで伸ばします。そして1929年には3年制の生駒聖書学院を20名の神学生と共に開校します。(正式な開校は1931年で学生10名の可能性があります。)神学生の中には郭奉祚など猪飼野教会の朝鮮半島出身の献身者たちもいました。生駒聖書学院では校長のクートが神学生の生活費の負担をするようなことはなく、神学生は各自それぞれが衣食住の管理をし、月謝を払って生駒聖書学校に学びました。

 1931年のJapan Christian Yearbookにはクートの働きと聖書学校について記した記事があります。

日本アポストリック・ミッションは奈良県にある決まった支援団体を持たないフェイス・ミッショナリーの一団です。(現在では4家族と2人の独身女性たちがいます。)3月から5月までの主たる働きは天幕集会です。数千ものトラクトが配布され自前の印刷所で福音紙を印刷しています。生駒聖書学院での唯一の教育的働きは日本人をクリスチャンワーカーに訓練することで、10名の学生がいます。聖書学校は養鶏と印刷所によって自立しています。毎週大阪の今宮地区の貧しい地域で集会が持たれます。そこに300人の最も貧しい人たちが警察によって集められ無料のシェルターが与えられています。(1931 Japan Christian Yearbook, 151)

開校当時の生駒聖書学院の正門
【L. W. Coote, Twenty Years in Japan (Japan Apostolic Mission, 1933), 160と161の間。】

 しかしクート夫妻の宣教活動は順風満帆ではありませんでした。大阪の遊郭での宣教活動を発端に地域住民と警察や地方自治体とを巻き込んだ衝突が生じ、しまいには生駒聖書学院の閉鎖と奈良での宣教活動の停止にまで追い込まれます。そのためクートは生駒での聖書学校を中断し1930年半ばに聖書学校を大阪に移します。しかしそこでまたクートの発言に怒りをもった朝鮮半島出身の人たちとの衝突が生じます。混乱の中でクートは英国領事館の仲介で生駒聖書学院の再開を取り付けるのですが、そのような中で1歳のメアリー・アンが1931年1月に突然死去します。医師の死因鑑定は毒害によるものでした。

 メアリー・アンの死に衝撃を受けクート家はクートだけを残して妻のエスターと子供たちが英国および米国に休暇帰国します。その間の1932年3月に末の娘のグレースが英国ストックポートで生まれます。クートは生駒聖書学院の再開に奮闘します。クートは1931年夏に米国そして1932年夏に家族に会うために米国と英国に行くのですが、クートの不在中は親交のあった立川のハリエット・デスリッジが生駒聖書学院を守ります。クート家の皆が生駒に揃ったのは1932年12月のことでした。

ペンテコステ新聞(1934年6月15日発行)
【『Japan and Pentecost』(August 1934), 11.】

 生駒聖書学院の最初の卒業式は1933年3月で8名の神学生が卒業しました。この中には朝鮮半島出身者や二人の立川のディスリッジの教会の出身者もいました。

生駒聖書学院第一期卒業生
【『Japan and Pentecost』 (May/June 1933), 2.】

 1935年頃からクートは朝鮮での福音宣教を視野に入れ活動を始めます。彼は朝鮮半島出身の仲間たちとペンテコステ信仰の拠点となる教団本部と聖書学校の設立を計画し、何度も朝鮮へと渡ります。しかし彼の計画は戦前において結実せず、戦後になってクート門下の朝鮮人伝道者たちによって成就します。

【『Japan and Pentecost』(February 1935), 1.】

クートと外国人宣教師たち

 クート夫妻は1920年にthe Assembly of Godを離れたあと1926年にはthe Pentecostal Band、1927年にthe Pentecostal Bands of the Worldに所属し、1929年には独自のJapan Apostolic Mission・日本ペンテコステ教会を設立します。クートの編集発行する『Japan and Pentecost』を通してクートの働きを知り、海外から日本宣教を志す多くのペンテコステ派宣教師たちが生駒のクートのもとに身を寄せ、生駒が関西におけるペンテコステ派宣教師たちの訓練及び中継基地となります。

 クート夫妻のもとに参集した宣教師名簿には1926年時にはエマ・フズリエ、エマ・ゲール、モナとベラ・ジャクソン姉妹、セオドール・ジョンソン夫妻、ハーバート・スミス一家、アリス・ウーリーがいました。その後にはロバート・フレミング夫妻、フローレンス・ライ、A. E.ランドル夫妻、アルセルナ・ストロムキスト、マーチン・グレーザー、アドルフ・リカート、フランク・グレー夫妻の名があります。彼らの中にはまずクートの働きを助けながら日本語及び日本文化を習得し、その後に独自の働きを開始する宣教師たちも多くいました。福岡のペンテコステ伝道館を開拓したグレーザー夫妻などもそうです。

1933年ごろの生駒滞在の宣教師たち
【『Japan and Pentecost』 (May/June 1933), 13】

 クートは1932年には母国の英国にも旅行し、8月には兄のハーバートの伝手でアポストリック教会のウェールズのペニーグローズ国際大会に参加します。そこでクートとアポストリック教会との関係が始まり、彼はこのネットワークに参加します。そして1936年には6ヶ月間ニュージーランドやオーストラリアのアポストリック教会を訪問し、自身もアポストリック教会の宣教師の任証を受けます。

 これを受けて、1937年からはオーストラリアのアポストリック教会からオーブリー・ニューランド夫妻、ウォルター・デントン、ニュージーランドのアポストリック教会からアルフレッド・グリーンウェイ夫妻、キース・ロバートソン夫妻、オリーブ・ヒューズ、そしてレタ・ダンが生駒のクートのもとに派遣されます。

1933年の宣教師新年聖会
【『Japan and Pentecost』 (March 1937), 11】

 しかしクートとアポストリック教会の連帯は長く続きませんでした。その要因の一つはクートの神観と洗礼方式だったと言われます。しかしそれには伏線がありました。1938年の秋に17歳の娘のフェイスがオーストラリアのアポストリック教会のウォルター・デントン宣教師と恋に落ちます。在日のオーストラリアのアポストリック教会の宣教師たちがフェイスとデントンの肩を持ったことでクートは彼らと不仲になり、神戸のテーラー夫妻や大阪の英国領事館が彼らの調停に入りますが決裂し、クートはフェイスを米国へ送り出します。これがクートとオーストラリアのアポストリック教会との不仲へと発展し、クートはアポストリック教会からの財政支援を断られます。そして1940年秋にはクートはアポストリック教会と決別します。

1937年1月の生駒聖書学院での第7回新年聖会
【『Japan and Pentecost』 ( February 1937), 1.】

米国での生活(1939―1950)

1939年頃のクート家

【『Japan and Pentecost』 (March 1940), 1】

 1939年10月にクートは休暇帰国のために太平洋を渡り、1940年のチャーチ・オブ・ゴッド(クリーブランド)の総会では日本での働きについて講演しています。クートたちはテキサス州サン・アントニオに住み、1941年にエマニュエル教会(リバイバル・テンプル/ クライスト・イズ・ザ・キング・チャーチ)を開設し、1942年にはサンアントニオ・バイブル・ミッショナリー・トレーニング・スクール(万国聖書学院・インターナショナル・バイブル・カレッジ [2020年廃校])を設立します。

 日本ペンテコステ教会は1941年に日本基督教団第10部に加入し、日米開戦と共に生駒聖書学院は閉鎖され、戦時中はキャンパスは日本帝国陸軍に接収されます。クートは1948年まで日本に戻ることはありませんでした。

1940年10月のクートの手紙のレターヘッド

戦後の働き(1950-1967)

 戦後、1948年にクートは敗戦後の日本の状況を視察するために再来日し、1950年4月にはワンネス・ペンテコステ派のthe United Pentecostal Church【UPC】の宣教師として再来日し、数年間は旧知の村井のイエス之御霊教会、サンアントニオの万国聖書学院卒でUPC派遣の貫田順と共に宣教の共同戦線を張ります。しかし暫くしてクートはUPCを離れ、戦前からのJapan Apostolic Mission・日本ペンテコステ教会を再興します。1952年には大阪救霊会館を設立します。1957年には朝鮮にいるかつての教え子たちと共に戦前からの夢であった中都聖書学院及び教会を韓国に設立します。米国で設立した万国聖書学院を卒業し日本の宣教師になる人たちも多くいました。 戦後、クート一家の生駒での働きを通して多くの日本人の教役者たちが輩出されます。彼らによって日本福音教会、ネクスト・タウンズ・クルセード、トータル・クリスチャン教会、イエス・キリストの福音の群れなどが生まれます。

晩年

 44年間寄り添った妻のエスターが1962年7月にテキサス州サン・アントニオで亡くなります。クート自身も糖尿病を患っており、1967年に日本でインシュリンの摂取過剰で意識不明となり病院に担ぎ込まれます。6時間もの間意識不明でしたが多くの人の祈りに支えられて奇跡的に生還します。クートは療養のために米国に渡り、まずテキサス州ダラスの長女宅で休養するのですが、一週間後には祈りのうちに示されて長距離バスに乗って大陸を横断しコネチカット州在住のフランシス・ドッズという未亡人に会いに行来ます。

 フランシスはクートの発行する『Japan and Pentecost』の愛読者で熱心なクリスチャンで子供たちの教会学校を運営していました。彼女は1966年に30年連れ添ったご主人を亡くし、クートの来訪まで実際にクートに会ったことがなかったと言います。クートとフランシスは1968年1月4日にとテキサスで結婚します。クート76歳、フランシス53歳の時のことです。

 フランシスはクートと再婚後に日本語を学び始め訪日を強く希望するのですが、クートが1969年2月23日に77歳でテキサス州サンアントニオで亡くなったために訪日することはありませんでした。二人が共に過ごしたのはわずか1年1ヶ月でした。クートはエスターの眠るテキサス州サンアントニオで葬られ、1994年に亡くなったフランシスは前夫と共にメイン州に葬られています。

クート夫妻の墓石

(テキサス州サンアントニオのミッション・バリアル・ノース・パーク)【ancestry.com】

おわりに

クートの神学

 クートはメソジスト教会のバックグランドがありましたが、日本に来てから確かな信仰を持ち、そして聖霊体験をし、特に神学教育を受けることもなく、そのままペンテコステ派の伝道者として立ち上がり、日本、米国、韓国で教会や教団、そして聖書学校を設立して生涯を終えました。

 クートは1918年からthe Assembly of Godに所属していましたが、1920年に三位一体の神観を明確にした米国アッセンブリー教団日本支部が設立されるとそれに参加することなく独立宣教師の道を選びます。先に述べたようにエスター夫人が米国シアトルのオフィラーのベテル・テンプル出身のこともあり、彼らは「父御子御霊、すなわち主イエス・キリストの名による洗礼」の洗礼方式をとっていたと思われます。

 クートは海外のワンネス・ペンテコステ派を含めたさまざまなペンテコステ派と親交を持ち、生駒の彼の元には英国、米国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどからのさまざまな神学的背景を持つペンテコステ派の宣教師たちが集まっていました。クートは戦前には三位一体の神観を持つアポストリック教会に所属し、戦後にはワンネス・ペンテコステ派のUPC所属の宣教師として来日します。クートの神観が三位一体なのかそれともワンネスだったのか判断が分かれるところです。

 ポール・土戸・シューは彼のクート研究において、クートは洗礼方式において「イエスの名の洗礼」を採用したが、三位一体の神観に反対することもワンネスの神観に同調することもなかったと結論づけます。しかしクートが UPCの機関誌である『ペンテコスタル・ヘラルド』(1950年2月号)に寄稿した「ジャパン・コーリング」で、彼は自分のJapan Apostolic Missionをワンネス・ペンテコステ派の働きだと明言し、戦後の日本はワンネス・ペンテコステ派の宣教の好機だとも述べています。また日本のワンネス・ペンテコステ派(主にUPC)の歴史を辿ったポール・デニスは著書の『A Promise and Plan: A History of the Oneness Pentecostal Movement in Japan』(Word Aflame Press, 2014)で、クートをワンネス・ペンテコステ派の宣教師として取り扱い、1954年に「教義の違い」でUPCを離脱したとしています。

 筆者が2005年11月にクートの神観について次女のルース・ベルに問い合わせた際にこのような返信がありました。

 父はアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの宣教師とベテル・テンプルの宣教師の両方ともかなり親しくしていました。父は孤立主義者ではありませんでした。父が心から彼らのどちらにも加わらなかった主な理由は、父が厳密にイエスの名において洗礼を授けており、神は3つではなく1つであるという啓示を受けていたからだと思います。父は決してこの点においても極端ではありませんでしたが、確信を持っていました。父がUPCを離れたのは、彼らが極端で、聖霊か地獄かで、彼らがイエスの名による洗礼でなければ洗礼を認めなかったからです。(拙訳)

 戦前、生駒のクートのもとに集まったさまざまな背景を持つペンテコステ派の宣教師たちがクートと共に働くことが可能であったのは、彼らが共通の福音宣教を重んじるペンテコステ信仰を持ち、クートが自分の神学を持ちながらも極端な神学を嫌い、さまざまな神学を受容する緩い神学的理解を持っていたからもしれません。

クートの追憶

 1971年2月に『日本傳道50年 クート師の思い出と説教』が日本ペンテコステ教団編集員会によって出版されます。その中で生駒聖書学院第一回卒業生の郭奉祚(韓国中都聖書神学院々長)が「恩師クート先生への追憶」を寄せています。そこには彼がクートから強く影響を強く受けたクートの五つの人格的特徴が記されています。

第一 積極的な人物
 何よりも先生は中途はんぱな事は大きらいな方で御自分で全ての事につき徹底的になさる方でした。先生の主張する話の内でキリストの内には、成したわぬ事なしと強く話したことは今もその声が聞えるようであります。積極的な人物であるが為に色々障害が多く困難な内にも、日本、米国、韓国にペンテコステの教役者養成所である聖書学院を創設し、その事実が先生は召されても継続されていることは、先生の肉体が悪くなっても先生の使命は生きているのでこのことは真に讃美すべきことであります。

第二 勤勉なる人物
 世界を支配した英国人である関係かどうか知りませんが先生の勤勉には驚かずにはいられませんでした。私が生駒聖書学院に在学時には先生は元気いっぱいの壮年でその仕事はかぞえきれませんでした。毎月、英文刊行物、日本文刊行物亦各種書類、毎日数百種の手紙、学院の授業、毎週の天幕伝道会 大阪、京都、奈良各地方の働き、毎夜十二時以後に帰ってから寝らずに事務所にてタイプを打つ、目をさまさせる為に運動場を走り廻っていたことを良く憶えています。その精神を知らず知らずに私も受け今もその精神でやっていることを感謝する次第でございます。

第三 信仰の人物
 御承知の通り先生は米国に依頼する教派を持たなかったことを知っています。先生は英国のジョウジ・ミュウラーやウェスレー等の信仰の能力を受け何一つなくとも聖霊により、必要の為には信仰を持ってやり始め故に失敗はありませんでした。生駒の土地を買い数年間建物を建てることが出来なくて色々な誘惑があっても信仰に立って動かず前進に前進する信仰が、東、西洋に先生の仕事が今も続いていることは感謝すべきことであります。

第四 真理に強い人物
 事業繁栄のためには多く妥協するのが普通でありますが先生はいかなる困難があっても聖書的真理のためには一歩も譲らず真理に立った人物でありました。先生が強く教えられた教えに「真理を売買すべからず」とあり今も教訓として残っていることは感謝に堪えません。

第五 倹素な人物
 質の祝福された米国の人々の生活に比較するには先生はあまりにも倹素の生活であったことは誰しも認めるのにちゅうちょする者は恐らくないでしょう。韓国の学院建立する時に、板の切端をすてたのを先生がひろい集めているのを神学生等が訳も知らずに老人のことと笑う者もおりましたが、先生の倹素の生活は、神の物を貴く取扱う精神で、五つのパンと二匹の魚で五千人を食べさせ残った物を集めるキリストの精神を強く受けた人物として教えられた事を感謝する者であります。

 何よりもペンテコステの精神、即ちペンテコステの思想に強められた者として以上の五点をもって先生の追憶をする者であります。

【東大阪キリスト教会ホームページ (https://9614.org/日本伝道50年(クート師の思い出と説教)/故%E3%80%80lwクート先生(郭%E3%80%80奉祚)/)】

現存が確認されている一番古い1927年11月号の『Japan and Pentecost』

レオナード・W・クートの著作

L. W. Coote, Twenty Years in Japan (Japan Apostolic Mission, 1933)

L. W. Coote, Impossibilities Become Challenges (Japan Apostolic Mission, 1954)

L. W. Coote, Go Ye (Japan Apostolic Mission, 1930)
『聖書がい論』
(1953年3月出版)
『預言の原理』
(1953年3月出版)
『ルツ記講義』
(1953年3月出版)
『使徒行伝二章四節』
(1957年4月発行)

参考文献

Japan and Pentecost【FPHC所蔵】

Jay Woong Choi, “The Origins and Development of Korean Classical Pentecostalism (1930-1962) “ (フラー神学大学院博士論文、2017)

Paul A. Dennis, A Promise and Plan: A History of the Oneness Pentecostal Movement in Japan (Word Aflame Press, 2014)

Paul Tsuchido Shew, “History of the Early Pentecostal Movement in Japan: the Roots and Development of the Pre-war Pentecostal Movement in Japan(1907-1945)” (フラー神学大学院博士論文、2003年)

Paul Tsuchido Shew, “Leonard Coote and Early Pentecostal Mission in Japan” (2004年SPS 発表)

Ruth Bell, Esther of Japan (Church Alive! Press, 1999)


筆者:鈴木正和

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