月刊アッセンブリーNEWS連動 -引退に寄せて-
前川 圭司 師
門真キリスト教会
2021年3月31日に引退された先生方による手記です。
この記事は「月刊アッセンブリーNEWS 2021年7月号・引退レポート」に連動しています。ぜひそちらもご覧ください。
故・静子先生と2ショット
生い立ちから少年時代
私は1936年(昭和11年)1月1日、午前2時に徳島市前川町で生まれました。
1941年12月8日、日本軍が真珠湾を奇襲し始まった太平洋戦争も、1945年8月6日広島に、9日には長崎に原爆が投下され敗色が濃厚となりました。生家がB29の空爆により焼け落ちるのを横目に、弟と二人母に手を引かれ命からがら逃げ延びました。
焼け残った母方の伯母の家で同居しました。学童疎開で山村の学校に避難した日、校庭に集合、昭和天皇の玉音放送を聞いている時、先生方が泣いているので、神の国大日本帝国も第二次世界大戦に負けたと分かりました。
青年期
翌年、わたしが11歳の時、母が33歳で病死。長男だから父の仕事(スーツの仕立職)を手伝いましたが、手先の不器用な私には向かず、父の再婚もあり、1957年(昭和32年)2月3日に大阪市都島区の町工場に住み込みで就職。何の希望もなく、毎日起きて働いて、食べて寝る生活の繰り返し、そしてやがて自分も母と同じように死んでいく。ひとはなぜ死ぬのか、死んだらどうなるのかと悩んでいました。
救い
ある日、入社された姉妹が、後日、自分の家の家庭集会に熱心に誘ってくれたのですが、「僕は神も仏も信じない。もし愛の神がいるなら、なんで僕の母を死なせたのか」と断固拒み続けましたが、余り断り続けるのも失礼と思い、意を決して訪れると、数人の人が集い、故徳木力先生が聖書のメッセージを語っておられました。その翌日から「神がおられ」、「いや、いない」と姉妹と私の議論が始まりました。散々拒み続けていましたが、1958年11月27日、夜9時頃、AG教団の月刊誌「証人」のメッセージ「バラバとはだれか」を読んでいた時、聖霊がわたしの心を捉えて「バラバとは他の誰でもない、あなただ」と強く示してくださり、自分の罪を告白し悔い改めてイエス・キリストを救い主と信じることができ救われました。
気の弱い私は証しのできる力を求めて祈っていると、12月17日、異言の伴う聖霊のバプテスマを受け、クリスマスから教会学校の教師として奉仕を始めました。
献身、そして伝道者生活へ
1959年6月21日に受洗。9月4日、献身の召命(詩篇40:7口語訳)を受け、CBC(中央聖書学校:現在の中央聖書神学校)に入学するつもりでいましたが、徳木力師のお働きと尾崎キリスト教会の事情もあって入学できず、信徒として教会と伝道所での奉仕を続けました。
1965年3月28日に結婚。都島中央キリスト教会設立まで、尾崎キリスト教会都島伝道所として6年、守口市梶町で9年、各週ごとに母教会と伝道所を行き来しながらの奉仕が続きました。
1980年4月6日、現在の四軒長屋の一軒目を購入、増改築し、門真キリスト伝道所として発足。1982年5月18日、教団補教師となり、7月20日に教団直属の伝道所となりました。また1987年5月4日、按手礼を受けました。そして順次、二軒目、三軒目、四軒目を購入[写真3]。2010年4月、創立30周年記念行事として、現在の会堂へと改築しました。
2012年6月3日、大阪府枚方市の開拓の召命(イザヤ43:19)を受け、その実現を祈り続けています。
道半ばの1998年12月23日、午前8時16分、ベターハーフ(妻・静子)が召天。しかし、いついかなる時も、みことばの約束の如く、主が共にいてくださっての今日があります。
全知全能の神は、濵崎恵太、かおり師夫妻を後継者として遣わしてくださいました。後は「神とその恵みの言葉」(使徒20:32)と濵崎先生たちにすべてをお委ねして引退します。
すべての栄光が主にありますように。 アーメン。
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