MENU

リアル放蕩息子放浪記①

第一回 リアル放蕩息子爆誕!の巻

城市 篤
豊川キリスト教会牧師

 春は何かと新しい事が否応なしに始まる季節である。期待に胸を膨らませると同時に、少なからず不安も抱きつつこの季節を迎えているのではないだろうか。私がいわゆるユースだった頃を振り返ってみると、そんな気持ちで新しい生活が始まっていったのを思い出す。この執筆が現在進行形でこの期待と不安の真っただ中にあるユース諸君にとって、少しばかりの励ましと反面教師的参考にでもなれば誠に幸いである。

1996年4月、遂に憧れの大学生生活が始まった。追試と補習と汗にまみれた剣道部の練習以外ほとんど思い出がない暗黒の高校時代を経て、まさに春が来たという気持ちだった。島根の親元を離れて、熊本での一人暮らし。私の頭の中に浮かんだのは「自由」の二文字だった。夜遊びしようが、自堕落な生活をしようが、うるさく小言を言う親はいない。まさに圧倒的自由。控えめに言っても最高だ。当時の私の頭の中は良からぬ事でいっぱいであった。リアル放蕩息子誕生の瞬間である。

 ところが、私のこの良からぬ目論見は脆くも崩れ去ってしまう。それは私が入学したのが農学部であり、多くの大学に見られる傾向らいしのだが農学部の校舎だけは町から離れた郊外にある場合がよくあるということだった。私の通っていた大学は雄大な阿蘇の外輪山の中にあり、周辺にあるのは見渡す限りの大自然であり、きらびやかなネオン街などとは程遠く、当時は最寄りのコンビニでさえ歩いて2時間という、およそ便利とは真逆のcountry of countryな学校であった。私はこの目の前の現実に愕然としてしまったのを昨日のことのように懐かしく思う。ここまで読んだ読者の中には、そんなのちょっと調べれば分るのではないかと思うかもしれない。これは全く言い訳になってしまうのだが、当時はインターネットも普及しておらず、高校生だった私の大学についての情報源は担任の教師ぐらいのもので、進路相談の際に、「城市は農学部とかが合っているんじゃないか?」との一言で、私自身も「そうかな?いや、きっとそうだ。」と言うことで農学部を志望することになった経緯がある。当時はその担任の教師に不満タラタラだったが、今は本当に感謝している。教師の何気にない一言がこれほどに人の人生に影響すると言うことを、私も教師の端くれとして肝に銘じておこう。

 自分の思い描いていたものとは多少違ってしまったが、住めば都とはよく言ったもので学生生活自体はそれほど悪くはなかったことも述べておこう。学生の多くは付近の「村」にあるアパートや下宿などに住み、通学していた。もともと人口数百人ほどの村に1000人程の学生が暮らしていたのである。そのため、まるで村全体が学生寮のような雰囲気だった。ほぼ毎日どこかしらのアパートの一室で、どんちゃん騒ぎの飲み会が開かれており、先輩後輩関係なく誰でも自由に参加することが出来た。その他にサークルやイベント、農業実習、アルバイトなどもあって交友関係はどんどん広がっていった。この友人知人たちだが、やる事は世間の基準からはかなり逸脱している所もあるのだが割りと気のいい連中で、彼らとの止めどないバカ騒ぎと何でも有りというような雰囲気を私自身は結構気に入っていた。自由になれた気がした18の春である。

 そんな毎日を何となく過ごしていたのだが20歳ぐらいの時、ある出来事がきっかけで、それまで考えもしなかった事をふと考えるようになった。それはある日の夜中、同じアパートに住んでいる友人が私の部屋にやって来て、「お前聞いた?○○君、死んだらしいよ。」という知らせをしてくれた。この○○君は私の同級生であった。彼が自殺なのか事故死なのか、なぜ死ななければならなかったのかは今でも分からない。休憩時間などにちょっとおしゃべりする程度で、それほど親しい友人というわけではなかったが、身近な人の死というものは、私にとって大きな衝撃だった。この事以外にも私の大学在学中の4年間は驚くほど人の死が身近な所にあった。私が住んでいた某村には、落差60mほどの大きな滝があり、その滝が見える橋から度々誰かが投身自殺をするという、いわゆる自殺の名所であり、多い時には一週間で3人の方が立て続けに自ら命を絶つと言うこともあった。

 その人達にどんな悩みや苦しみがあったのかは分からないのだが、「あの人たちは死んで本当に楽になったのだろうか」、「救われたのだろうか?」「人は死んだらどうなるのかな?」とか、「天国や地獄と言うものは本当にあるのだろうか?」とか、「神様って本当にいるのだろうか?」とか、そもそも生きる意味とは何だろうと言うことを漠然と考えるようになったが、その頃の私がいくら考えても全く答えにはたどり着くことはなかった。時々深夜のファミレスで友人たちとそんなことを話題にしてみたこともあった。しかし、その反応は何となく見て見ぬふりというか、目を背けたいというのか、自分とは関係ない所の話にしておきたいという感じだった。そしていつしか話題はすり替わり、結局いつも好きな女の子の話や車やバイクやパチンコの話で、何となく盛り上がると言うのがお決まりのパターンだった。

 友人たち曰く、そっちの方が気楽でいいじゃないか、人生一回しかないのだから楽しんだ方が得だというのである。私はこの意見もよく分かる。何を隠そう自分もそうだ。暗い事は箱にでもしまって心のタンスの奥の方に押し込んでなかったことにしてしまう。楽しい事を考えて愉快に生きる。それも一つの生きる手段かもしれない。全く事情が分からない方々はともかく、私の知る限りあの死んでしまった友人に限って言えることは、彼は多くの同級生と同じように自由に楽しく生きていたように思う。少なくとも私の目にはそのように見えた。しかし、突然に悲しい人生の終わりを迎えてしまったのである。

 不自由に生きるより自由に生きる方が良いはずである。そのため多くの人は自由を手に入れるために、仕事や勉強など様々な事を頑張るのだと思うのだが、そもそも一体何から解放され自由になりたがっているのだろうかと考えさせられる。私の場合において正直に言えば、単純に自分の心の欲するまま、好き勝手に、どこまでも自己中心的に生きてみたかった。ただそれだけである。親や周囲の期待や失望、世間の価値観の一々振り回されることなく、何者にも束縛されずに生きてみたかったのである。そしてそれが悪い事だとは露ほどにも思ったことはなかったし、むしろ良い事だと思っていたぐらいである。しかし、その私が求める自由を追いかければ追いかけるほど、周囲を傷つけ、自分も傷つき、虚しくなってしまう。自分の理想と現実のギャップに苦しんでしまう。かつて自分自身が心から嫌っていたはずである「ああならなければいけない」、「こうでなければならない」という型にはまった生き方に、いつしか自分でも気が付かないうちに囚われてしまっていた。

 その頃の自分自身を振り返って見ると表面上では楽しく自由を謳歌している風を装いながらも、心の中は全くの暗闇であり、そこから抜け出す糸口さえ見つからぬ有様であった。

“罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。”
(ローマ人への手紙6章20-21節)

と御言葉にある通り、私は全く罪の奴隷状態であった。

次回、「はじめての福音」に続く。

この記事が気に入ったら
いいねしてね!

お友だちへのシェアにご利用ください!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

感想・コメントはこちらに♪

コメント一覧 (4件)

  • 放蕩息子の帰郷 をリアルに聞かせていただけるとは。思考の経緯と現実の生活とを読ませていただきどのような展開になるのか、と先が気になって、ハラハラドキドキして読んでいます。放蕩が怖くて、早く、帰って来た時のことを語ってよ、などと気の小さいことを言って読後の感想を口にしています。
    昔々のことですが、伝道集会などで、放蕩の限りを尽くしていた折に主に出会い救われて牧師になった先生の証を聴きました。酒におぼれたのん兵衛の様子が真に迫っていて(リアルのん兵衛でしたから当然なのですが)、出た、と喜んで聴いたものです。その先に神さまの救いがあり信仰者となった喜びが聞けるので、リアル放蕩も聞けたのでした。
    城市先生の本稿、先を楽しみにお待ちします。ありがとうございます。

  • 私は放蕩娘だったものです。奇しくも私農学部卒で驚いている所です。放蕩せずとも素晴らしい信仰者の農学部生が生まれるよう祈ります(笑)いやいやもう沢山いるはずですね失礼しました。

    自分なりの自由を求めて進んだ先が罪の奴隷生活で全く自由じゃなかった、という所にそうだったなと今一度思わされました。
    私は幼い頃から教会に通っていて罪を悔いて帰ってきた身ですが、
    城市先生はこれから魂の父に会いに戻るのですね。

    福音が待ち遠しいです!

  • 酒井兄、コメントありがとうございます。ネタバレになりますが、この後も放蕩し中々救われないのですが・・
    また、読んでいただけますと励みになります。感謝!

  • 岡姉も放蕩娘だったのですね。しかも農学部卒とは。なんだか嬉しく思います。
    あの頃は動物の羊飼いになるつもりで勉強していたのですが、まさか現在
    主の羊飼いになるとは夢にも思いませんでしたww

城市篤 へ返信する コメントをキャンセル