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宣教師としてのキルケゴール③

宣教師としてのキルケゴール③

仏教徒には仏教徒のように

セーレン・オービュ・キルケゴール 

宣教師としてのキルケゴール

〜仏教徒には仏教徒のように〜

 セーレン・オービュ・キルケゴール  

荻野 倫夫
ガリラヤ丸子町キリスト教会牧師
中央聖書神学校学生主任

キリスト教世界のただなかに生きているある人が神の家に上る。それは真の神の名をもって唱えられる家であり、そしてこの人は真の神とはなにかを正しい知識としてあたまのなかにちゃんともっている。そしていまや彼は祈る。しかしその祈りの態度は不真実である。もしもこれに対して、偶像を拝んでいるどこかの国に生きるある人が、たしかにその目はなんらかの偶像の上に注がれているにしても、《無限》に直面していることのなによりの証しである、たましいの底からの情熱をかけて祈ったとしよう。どちらの側に最も多くの真理があるか? 一方は偶像を拝んでいるにもかかわらず、その祈りの態度が真実に貫かれているがゆえに、神にむかって祈ったのだ。他方は真の神に不真実な態度で祈った。ゆえにそれは、真実においては偶像を拝したことにほかならないのである[1]

— ヨハネス・クリマクス(キルケゴールが創作した仮名著者)

『哲学的断片への結びとしての非学問的あとがき』

[1]SKS 7, 184/ CUP I, 201.

はじめに~日本宣教を阻む番目の障壁:仏教

 前稿は、キルケゴール思想が、日本宣教を阻む最初の障壁「私」を克服するために、どのように貢献し得るかを見ました。デイビッド・ルー『日本宣教を阻む5つの障壁』によると、日本宣教を阻む2番目の障壁は「仏教」です。

 「令和元年版の宗教年鑑によると、日本総人口の1.1%がクリスチャン、仏教徒は46.5%となっています。その1%の私たちが、46.5%の仏教徒に伝道をしようとする場合、どういうアプローチを取ったらよいでしょうか」(ルー、21頁)。ルーは仏教徒の方に対決姿勢で臨むことを勧めません。「仏教徒の中には、私たちが牧師になるのを選ぶように、僧侶になり、尼さんになって真剣に仏の道を歩こうとする人たちがいます。夫や妻など愛する人を亡くし、剃髪(ていはつ)をして供養に務め、慈善事業に従事する人もいます。その人たちの信仰を疑ってはいけません」(ルー、21頁)。「形骸化していながら、仏教が引き続き日本人の心に訴えることができるのは、他の宗教と違って、死という現実に直面し、それを怖れずに教えている宗教だからです。仏教徒の間にも、死を真剣に見つめているいくつかの例があります」(ルー、41頁)。ルーは、仏教徒に対する尊敬をもって伝道をすることを勧めます。しかしキリスト教との違いも知っておく必要があります。「ただここで強調しておかなければならないのは、真宗の方々が諸仏の一人で絶対者でない阿弥陀仏の本願に頼っているのに、私たちの救いは絶対者である神の御子の贖罪から来ているという事実です」(ルー、29頁)。

本稿冒頭の引用句におけるキルケゴールの真意

 本稿冒頭の引用句は、一部のクリスチャンには非常に評判が悪いです。ある人々は、キルケゴールの相対主義を象徴している言葉と捉えます。なぜなら、だらしないクリスチャンよりも、真面目な偶像崇拝者により多くの真理があり、その真実さのゆえに、神に祈っていると言っているからです。

 まずこの言葉は、キルケゴールが創作したヨハネス・クリマクスという仮名著者の言葉です。クリマクス自身の自己紹介によると、彼はクリスチャンではありません。そしてキルケゴールによれば、仮名著作の言葉の中には、彼自身の言葉は一つもない(!)とのことです(ただし仮名著者の間で、キルケゴール自身の立場との距離は個人差があり、とりわけアンチ-クリマクスは、キルケゴール以上の理想のキリスト教の体現者の役割を担っています。なお名前が似ていますが、ヨハネス・クリマクスとアンチ-クリマクスは別人です)。なぜそんなややこしいことをしたのでしょうか。これまた彼の言葉を使えば、「真理に欺き入れる」ためです。「では『欺く』とはいったいどういうことなのか。それは伝えるべき事柄をじかに持ち出さないで、他人の精神の妄想を真に受けることから始めることである」[2]。つまり仮名著作は、真理に欺き入れるための方便なのです。これを日本に適用するならば、新生前の人にとっての真理を、新生後の立場から全面否定するよりも、むしろその人の立場になって(「仏教徒には仏教徒のようになって」Iコリ9:20-21参照)、その立場を肯定すべきです。同じく受肉的宣教者であるパウロはアテネで、「町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを覚え」ますが(使徒17:16)、こう呼びかけています。「アテネの人たち。あなたがたは、あらゆる点で宗教心にあつい方々だと、私は見ております」(使徒17:22)。私たちのゴールは仏教徒の方にキリストを信じ受け入れて救いをいただいてもらうことです。他のすべては負けていいので、このゴールにたどり着くよう目指すのです。

[2] 『わが著作活動の視点』白水社、53-54頁、訳文若干修正、SKS 16, 36/ PV, 54.

 第2に本稿冒頭の引用箇所は、「全員がクリスチャン」であるキリスト教国デンマークという文脈で語られました。ですから偶像崇拝を奨励しているのではなく、むしろ自国の自称クリスチャンに「信仰において地理的な有利さはない」と警告し、「真の神を知っている私たちは、真実な態度で神をあがめようではないか」と呼び掛けている言葉です。以上、私たちは冒頭引用句におけるキルケゴールの真意をくみ取ったと仮定します。

 今度は冒頭引用句を仏教国日本の文脈に照らして考察してみましょう。無縁に見える仏教国日本とキリスト教とのリンクが浮かび上がってこないでしょうか。なお、キルケゴール本人は170年程前に召されています。彼の日本についての知識はほぼ皆無であり、著作で日本についてちょこっと触れている個所では、日本についての誤った知識を披歴しています…。ですからキルケゴール思想を日本に適用するためには、私たちの想像力で補わなければなりません。言い換えれば、以下はキルケゴール思想に基づいた、筆者の敷衍です。

キルケゴール的仏教克服の道①:仏教徒の信仰への敬意

 仏教徒へのキルケゴール的宣教の第1は、新生前の仏教徒、とりわけ真剣に仏教に帰依する人々の信仰を尊敬し、内在における真実を積極的に肯定することです。私たちがその人たちを「偶像崇拝者」と軽蔑するとき、また口に出してそうは言わないが、心の中で裁くとき、そのような見下す態度はすぐ相手に伝わります。そしてその態度によって私たちは、間接的にクリスチャンとキリスト教を魅力ないものとして提示しています。新生前の真理に真剣に生きている人は尊敬に値し、クリスチャンもまた彼らの信仰姿勢から学ぶことができます。

 本稿冒頭のクリマクスの言葉を味わうにつけ私が思い出すのは、佐々井秀嶺上人です。若い時の破天荒で極めて人間的な葛藤や苦しみを経て、今ではインドにおける不可触民解放と仏教リバイバルの最重要人物です。彼のような尊敬すべき仏教徒の生涯と信仰を知ることは、私たちクリスチャンを発奮させ、へりくだらせ、また仏教に対する然るべき尊敬を呼び起こします。

キルケゴール的仏教克服の道②:情熱の対象がキリストに代わるよう誘惑する

 仏教徒へのキルケゴール的宣教の第2は、仏教徒の方の熱情と信仰をひとまず肯定しつつ、ゆくゆくはその情熱の対象がキリストに変わるよう誘惑するということです。例えばキルケゴールは、心から信頼した人に裏切られ、傷つく人にこのように語りかけます。「それは、信ずることが正しくなかったというのではなく、また、そんなふうに信ずることが正しくなかったというのでもなくて、一人の人間をそれほどまでに信ずるということが正しくなかった…」[3]。ここでキルケゴールは、熱烈に信じることそれ自体は良いことだと肯定し、ただしその信じる対象を人間でなく神に代えるよう諭しています。パウロはユダヤ教徒の時もキリスト教徒の時も熱心でした。彼は熱心にキリスト教を迫害していましたが、後に熱心にキリストを崇めるようになります。同様に日本人仏教徒の篤い信仰を批判するよりも、その情熱を肯定し、ただし方向がキリストに向かうよう誘うのがキルケゴール的方法です。どうやってでしょうか。

[3] 『キルケゴールの講話・遺稿集 1』新地書房、39頁、SKS 5, 33/ EUD, 24.

キルケゴール的仏教克服の道③:真の神に真実な態度で祈る

 仏教徒へのキルケゴール的宣教の第3は、真の神に、真実な態度で祈ることです。そのような信仰者の生き様は、仏教徒の方々を感化することができます。キルケゴールは言います。「人の生き様が宣べ伝えることは、人の口が宣べ伝えることよりも数十万倍力強く効果的である」[4]。 私たちは敬虔な仏教徒によって自身の信仰の不真実さを示され、真実の神にふさわしい真実な態度で神を崇めるように鼓舞させられます。言い換えればクリスチャン自身が悔い改め、覚醒するのです。そのようなクリスチャン個人の覚醒は、本人だけに留まらず、間接的に、しかし効果的に仏教徒に影響を与えずにおかないでしょう。

[4] SKS 16, 186/ FSE /JFY, 131-2.

 何よりも祈りは、全能の神の御手を動かします。キルケゴールは、人間(クリスチャン)は人間(仏教徒)にきっかけを与えることができるに過ぎず、ただ神のみが人を新生させ、真理を認めさせることができる、と考えていました。ですから人間が人間の立場に留まりつつ、真の神に、真実な態度で祈ることは、神に働いて頂く最高の方法なのです。キルケゴールは、仮名著者アンチ-クリマクスの名で執筆した『キリスト教の修練』を、イエス様への以下の祈りの言葉で締めくくっています。

 そしてまたわたしたちは、平信徒たるすべてのキリスト者のために願いまつります。…どうぞかれらに、人の力におよぶかぎり、ほかの人々をみもとに引きゆくその務めをはたさしめてください。

 それは人の力におよぶかぎりのことでございます。なぜなら…ほんとうにみもとに引きよせたもう者は、ただひとり、あなた(イエス・キリスト)のみにていますからであります[5]

[5] 『キリスト教の修練』白水社、402頁、SKS 12, 253/ PC, 262.

適用

 日本に生きるクリスチャンが仏教と接する機会として最も多いのは、仏式の葬儀でしょう。クリスチャンは焼香の問題で悩みます。焼香とは「香を焚いて仏となった死者を拝むこと」であり、十戒の第一戒に反する偶像礼拝として、忌避するクリスチャンが多いかと思います。ですから以下の内容は強くお勧めはしません。ぜひあなたが通う教会の牧師に相談し、その牧会指導に従って下さい。

 妻がカウンセリングをしていた少年が亡くなりました。ご遺族は熱心な仏教徒でしたから、ご遺体の枕元には線香が焚かれました。私たち夫婦はクリスチャンで牧師ですが、ご遺族の求めに応じ、線香をあげました。ただし私たちは心の中で、ご遺族に神の慰めがあるよう熱烈な祈りをささげていました。後にご遺族は、私たちがクリスチャンであるにもかかわらず線香をあげたことにとても慰められた、とおっしゃいました。その少年の葬儀ですが、知らない人に葬儀を司られるより、知っている人に執り行ってほしいということで、私たちに依頼されました。キリスト教式で行うが良いかと尋ねると、ぜひお願いします、とのことでした。そこで私たちはキリスト教式で葬儀を行い、式でご遺族にお伝えしたかった神の愛を語り、慰めを祈りました。対決姿勢でなく融和的な態度で、しかしながら真の神に真実な態度で祈りつつ臨むときに、仏教徒の方に感化を与え、全能の神の御手が動いたのだと信じています。引き続きこれらの方々がキリストにある真の救いと慰めを得るように願っています。

おわりに~すべて信仰によらぬことは罪なり

 三位一体の神以外を拝礼するポーズをとることの聖書的根拠はII列王5:17-19です。繰り返しますが、仏式の葬儀におけるふるまいについては、それぞれの牧師の牧会に従って下さい。そしてクリスチャンとして焼香をお断りするにせよ、焼香を通して仏教徒の方々の心に寄り添おうとするにせよ、確信をもって行うべきです。パウロはコリント書の中で、偶像にささげた肉の問題について語っていますが、仏教国に住む私たち日本人にとって参考になります。「世の偶像の神は実際には存在せず、唯一の神以外には神は存在しない」(Iコリ8:4)ので、偶像に捧げた肉を「食べなくても損にならないし、食べても得になりません」(Iコリ8:8)。だから食べる人は、食べない人を「信仰が弱い」と裁くべきではないし、食べない人は食べる人を「偶像礼拝者」と裁くべきではないのです。私たちの場合も「これは偶像礼拝の罪なのではないか…」と恐る恐るお焼香をするのであれば、行わない方が良いです。いずれにしても選んだことを信仰をもって行うことです。そうすれば罪に陥ることはありません。「罪の反対は信仰である、それ故にロマ書14章23節には「すべて信仰によらぬことは罪なり」と語られている」(アンチ-クリマクス(キルケゴール創作の仮名著者)『死に至る病』)[6]

[6] 『死に至る病』岩波文庫、133-4頁、SKS 11, 196/ SUD, 82, emphasis in original

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