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宣教師としてのキルケゴール⑤

宣教師としてのキルケゴール⑤

〜無神論者には無神論者のようになる〜

セーレン・オービュ・キルケゴール 

宣教師としてのキルケゴール

〜無神論者には無神論者のようになる〜

 セーレン・オービュ・キルケゴール  

荻野 倫夫
ガリラヤ丸子町キリスト教会牧師
中央聖書神学校学生主任
出典:YouTube「儒教とは何かをわかりやすく解説【孔子の教えを学ぶ】」

…永遠を無しですまそうと思えば思うほど、その思いがかたくなになればなるほど、ますますもって人は根本においては永遠を必要としている…。[1]

―キルケゴール『「単独者」
私の著作活動についての二つの「覚書」』

[1] 『わが著作活動の視点』白水社、133頁、SKS 16, 84/ PV, 104.

はじめに~日本宣教を阻む4番目の障壁:「神を離れて完成を求める人間の理想像」

 デイビッド・ルー『日本宣教を阻む5つの障壁』によると、日本宣教を阻む4番目の障壁は「神を離れて完成を求める人間の理想像」です。これまで仏教と神道という日本における二大宗教を扱ってきました。ですが考えてみると、日本では「無宗教」を自認している人が多いことも事実です。以下日本人の無宗教性について予備的考察を加えます。

日本人の無宗教性の諸特徴

 第一に、日本人の無宗教性の形成には、儒教が関わっていると考えられています。これに対し儒教学者は、儒教は決してただの道徳ではなく宗教性がある、と反論します。ですが儒教学者がそう主張せねばならないことが正に、日本では儒教は主に道徳として捉えられ定着した事実が浮かび上がってきます。実際、以下に引用した儒学者・荀子の言葉も、一読無神論的であることが明白です。

[日本語訳]

古代中国の無神論者

中国人哲学者の荀子(BCE312-230)は、無神論者のブロガーのようなことを言っている:

祈りたいことを何でも祈るがいい――天は聞いておらぬ。

君が寒いからといって、冬は止んでくれないし、君が遠くまで歩きたくないからといって、地球は縮まぬ。

君は雨が降るよう祈り雨が降るが、君の祈りはそのこととは何の関係もない。時に君は雨が降るよう祈らないが、それでも雨は降る。これに君は何と答える。もしより良い生活を望むなら、自らよく学び、君の行動の結果について注意深く考えるがいい。

日本史の大家であるルーも、歴史的に日本人の無宗教性は儒教がその背景を形作ったと見ています。

 第二に、西洋人の無神論と日本人の無宗教は大分ニュアンスが異なります。西洋で無神論を標榜する人々は、積極的にキリスト教の神の存在を否定します。しかし日本の場合、信者と非信者の境界がはっきりしないのです。初詣にはいくが、宗教を問われると「特に信じていない」と答えるということが普通に起きます。ですから本稿では、日本の実情を鑑み、「自称無宗教」とやや奥歯に物の挟まったような言い回しを採用することがあります。

 ルーは儒教と日本人の無宗教性について、以下のように述べています。「儒教は大陸文化の伝来とともに日本に伝わったものの、それが庶民の生活に根付いたのは江戸時代からでした」(ルー、60-61頁)。「…儒教の人本主義も、人類発展のために大きな貢献をしています。しかし『人間は人間の力で自分を完璧にすることができる』という考えの裏には、神の存在を否定する排他的な要素があります」(ルー、61頁)。「…誇りが日本人のキリスト教を受け入れない理由になっています。『我々の間にはこのような美徳が備わっているから、キリスト教の必要はない』ということになるからです」(ルー、61頁)。「仏教と神道が宣教の妨げになることを前述しました。しかし最も大きな障壁は、儒教によって培われた、自分の力によって完全になれるという態度と伝統文化への満足感だと思います」(ルー、62頁)。「我々は特定の宗教がなくとも民度が高い」という満足感が、日本の無宗教性のひとつの特徴と言えます。

日本人の高潔さは神の言葉を受け入れる最高の素地?

 日本人の高潔さが、日本宣教の障壁となる一方で、ルーは英語版の『日本宣教を阻む5つの障壁』で、神の言葉を受け入れる最高の素地だ、と言います(キルケゴールだったら、日本人の高潔さと日本宣教の関係を弁証法的と呼ぶでしょう)。東北地震とその津波及び放射能の被害は、日本で戦後最悪の災害でした。ところが世界は、あり得ないことを目にします。テレビに映っていたのは、家族や財産を失っている人々の「清廉、自己犠牲、人を助けることをいとわない姿勢」(ルー、『日本宣教を阻む5つの障壁』英語版)でした。ワールドカップにおいては、ゴミ拾いをする日本人のマナーを世界が称賛しました。

 儒教の経典のひとつ『論語』には「義を見てせざるは勇なきなり」とあります。日本人の血の中に、大義のために自分を犠牲にする覚悟があります。そんな日本人にとって以下の御言葉は親近感が湧くのではないでしょうか。「なすべき良いことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です」(ヤコブ4:17)。日本人は—すべての人は—神の似姿に造られています。一般に日本宣教は非常に困難と考えられていますが、一方でその心に既にある神の似姿を呼び起こすという意味では「日本宣教は容易である」ことも聖書的真理ではないでしょうか。

無宗教の日本人への宣教戦略①:非宗教的で人々の興味を引くもので始める

 自称無宗教の日本人に宣教する第1の方法は、非宗教的で人々の興味を引くもので始めることです。キルケゴールは言います。「もし君がすぐさまキリスト教で始めると、彼らは言うだろう『私たちとは何のかかわりもない』。そしてすぐさま警戒する」[2]。 元々信仰に対する飢え渇きがある人になら、すぐさまキリスト教で始めるべきでしょう。でも食欲のない人に「食べろ」と言っても無理なように、信仰に興味のない人にキリスト教を勧めても、かえって逆効果です。キルケゴールは、一般の人が読みたがる仮名著作『あれか、これか』を執筆しました。一見キリスト教に無関係のような美的著作ですが、その実祈り深く準備され、非宗教的な魅力に満ちた宣教的著作でした。皆様の教会も既に、祈り深く、宗教色を払しょくした(?)催しで、日本の自称無宗教の人々を教会に惹きつけるよう試みておられるのではないでしょうか。牧師の監督の元、英語クラス、子ども食堂、カウンセリング・センター、時事問題についての講演、お祭り、ゲーム・イベントなど、それぞれの身の丈に合った、持続可能な「非宗教的人物が教会に出入りできる」イベントを教会に取り入れていくことは、日本宣教において効果的と思われます。

[2] SKS 20, 318-9, NB4:66/ JP, V 6107 n.d., 1848.

 ご注意いただきたいのは、非宗教的な催しは、相手の立場に立って、相手の気持ちになって行う宣教戦略ということです(Iコリ9:19-23)。キリスト教に興味のない人が、その最も深いところで実は霊的に飢え渇いていることを私たちは知っています。その飢え渇きに無自覚の間、非宗教的催しが自称無宗教の日本人を惹きつけると同時に、アペタイザーとなる、というのが味噌なのです。

 例えば「神を離れて人間の理想像の完成を求める」日本人向けに、キリストの高潔な人格についての聖書研究はいかがでしょうか。『論語』に「もし人において人を敬う心がなければ、いかに儀礼を形式的に行っても何になるのだろうか」とあります。形式的な儀礼に心が伴わなければ意味がない、ということでしょう。ところが古典的日本論『菊と刀』の中でルース・ベネディクト(1887-1948)は日本人についてこのように描写しています。「礼儀をわきまえているという点で他の追随を許さない」「その反面、思い上がった、態度の大きい国民である」[3]。つまり日本人は、他の追随を許さないほど礼儀をわきまえていながら、心の中では決して謙遜でへりくだっている訳ではない(ことがあり得る)のです。しかし日本人が「キリスト・イエスの心を心とせよ」(ピリピ2:5・文語訳)との勧めを実践するなら、礼節に心が伴うのではないでしょうか。キリスト教に「まっとうさが少ない」と批判する思想家・中沢新一も「イエスは好きですが」と言います[4]。多くの日本人は宗教を敬遠しますが、イエスは好きなのです。そしてイエスに惹きつけられるなら、聖霊が働かずにおかないことを私たちは知っています!

[3] ベネディクト『菊と刀』角田安正訳、光文社古典新訳文庫、2008年、14頁
[4] 養老孟子、中沢新一「「人類滅亡教」・骨の話・死体の話・「無」と絶対神」『宗教と現代がわかる本 2007』渡邊直樹編、平凡社、2007年、17頁

無宗教の日本人への宣教戦略②:(宗教)音楽や音楽的なものの活用

 自称無宗教の日本人に宣教する第2の方法は、(宗教)音楽または音楽的なものを活用することです。宗教音楽によるアプローチも、既に多くの教会で実践されているでしょう。キルケゴールの仮名著者審美家Aは音楽の力をこう言い表しています。「太陽の光のとどかないところにも、音楽ははいっていく」[5]。自称無宗教の人の心や、心にやみを抱えている人の内にも音楽ははいっていきます。デイビッド・ルーも、ベートーベンの第九やヘンデルの「メサイア」が日本で人気があること、合唱団の多くはクリスチャンでないことから、キリスト教の音楽が、日本の自称無宗教の方の心をつかむことを示唆しています。例えばバッハは、ある人は第五福音書記者と呼ぶほどその音楽は極めてキリスト教的ですが、不思議に無神論者の心をつかみます。哲学者フリードリッヒ・ニーチェ(1844-1900)は、「神は死んだ」という宣言で有名ですが、その彼が書簡でこのように述べています。「今週わたしはあの神的なバッハの『マタイ受難曲』を三度聞いたが、そのたびに同じ測り知れない感嘆を感じた。キリスト教をすっかり忘れていた者にとっては、ここでキリスト教が真の福音のように聞こえる」[6]。信仰を捨てた20歳以降のニーチェ(や現代の無神論者)が宣教の言葉に耳を傾けるところは想像できません。しかしそんな彼(ら)の心にも、音楽は福音を届けることができるようです。ジャーナリスト立花隆(1940-2021)は、「絶対的なものはない」とする不可知論者でした。立花はスペインの旅行中、ほぼ無人の静まり返った大聖堂にふらっと入り、そこで練習演奏ながら、圧倒的な迫力のバッハ『大フーガ』のパイプオルガンを聴きます。

[5] 『あれか、これか 第一部(上)』白水社、77頁、SKS 2, 50/ EO I, 41.

[6] 『人生の知恵 ニーチェの言葉』浅井真男訳編、彌生書房、1972年、133頁、強調原著者

突然なぜか涙が出てきた。涙は出はじめると、とめどなく流れ出た。自分がなぜそのとき泣いたのか、説明しろといわれてもできない。…いまでもあれは、私の人生における不思議な体験のひとつとして、心の中にずっと残っている。…神の存在を前にしたときの人間の卑小さを表現するのに、バッハくらいピッタリなものはない。あのとき私の胸を叩いたものはそういうバッハの音楽的効果だったのだろうか[1]

[7] 立花隆『思索紀行』書籍情報社、2004年、56-7頁

宗教嫌いを自称する人物の言葉とは思えません。このように音楽は、その人の信条を超えて心に響く不思議な力をもっています。キルケゴールは審美家Aの口を借りて音楽についてこう述べます。「そしてわれわれは、音楽が個々の点でしばしばきわめて誘惑的であるいることを否定しえない。しかしそうあって当然なのであり、しかもそれは音楽の偉大さなのである」[8]。キルケゴールは宣教を「真理への誘惑」と表現します。音楽は、自称無宗教の日本人をキリスト教に誘惑します。教会でキリスト教音楽のコンサートをしたら、これまで教会に来たことのない人も、足を運んでくれるかもしれません。

[8] 『あれか、これか 第一部(上)』白水社、189頁、SKS 2, 118/ EO I, 115.

 ここで私も消化しきれていない課題を述べます。キルケゴールによれば、モーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」は音楽的なものの理想を体現しています。そしてここから先が実にキルケゴールのユニークな点なのですが、彼は一瞬で恋に陥らせるドン・ジョヴァンニの音楽的なものを宣教(真理への誘惑)に用いました。キルケゴールの野心は「言語の音楽化」です。キルケゴールが試みたように、宣教の言葉が、一聴で相手を落とすような音楽的な魅力をたたえることは可能でしょうか。聖書ではパウロが「疫病のような人間」(使徒24:5)と呼ばれ、同様の強力な瞬発力が示唆されています。私の記憶では、イギリスの有名な説教家C・H・スポルジョン(1834-1892)が「見よ。世の罪を取り除く神の子羊」と説教練習をしたところ、それを聞いた人が救われたそうです。これらのことをただ偉人のエピソードとして感嘆するのでなく、私たちが戦略的に用いることはできないでしょうか。 

キルケゴールはモーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」に夢中になる。彼はドン・ジョヴァンニに音楽的なものの理念を洞察し、自らも「著作で歌い」言語の音楽化を試みた。

無宗教の日本人への宣教戦略③:神なき人生の必然的失敗と霊的渇望の自覚を促すこと

 第3に私たちは、無宗教の日本人に、神なしの人生の必然的失敗と霊的渇望の自覚を促さなければなりません。このことにより無宗教の日本人は、自身の霊的飢え渇きと絶望を自覚することができます。無宗教の日本人にこのような自覚症状が現れたなら、私たちは間接伝達から直接伝達に切り替えることができます。つまり聞き手が真に必要とする福音を、真正面からはっきり伝えるのです。

 アンチークリマクスの仮名の下執筆された『死に至る病』によれば、すべての人間は絶望しています。たとえある人が幸せそうで、絶望とは何ら関りがないように見えたとしても、幸せは絶望の格好の住処なのです。

 私の記憶では、著名なキルケゴール研究者大谷愛人(1924-2018)が、『死に至る病』は日本で累計100万部以上売れたと述べていました。海外のキルケゴール研究者が一様に驚くのが、日本における『死に至る病』の人気です。実際、既に8種類の翻訳がある『死に至る病』の新訳が、2017年に講談社学術文庫より出版されました(鈴木祐丞訳)。2022年『死に至る病』の解説書が発刊され(中島義道『てっていてきにキルケゴール』ぷねうま舎)、さらに須藤孝也による『死に至る病』の新訳と解説も近刊予定です(2022年12月29日現在)。その題を模したものは枚挙に暇がありません(「死に至る病、そして」アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(第16話)1996年;岡田尊司『死に至る病~あなたを蝕む愛着障害の脅威~』(光文社新書)2019年;櫛木理宇『死刑に至る病』(早川書房)2017年(2022年映画化)など)。キルケゴールは現代日本でほとんど読まれませんが、『死に至る病』というタイトルだけは独り歩きして、つとに有名です。同書が現代日本人の心にささったのは「たまたま」かもしれませんが、あえて深読みするなら、日本人は薄々、自分たちが絶望という名の死に至る病にかかっていることに気づいているのではないでしょうか。

 『死に至る病』という題名の出どころは、キリストの言葉「この病は死に至らず」(ヨハネ11:4・文語訳)です。『死に至る病』の本来の文脈では、以下のような意味です。

ラザロの致死性の病は、本当の意味で死に至る病ではない。いやあらゆる病、ケガ、死さえも、死に至る病ではない。我々はラザロが死からよみがえったのを知っている。キリストのおられるところ、そこに死はない。しかしキリスト者は、真に恐るべきものを知った。それが死に至る病である。


出典:カール・ブロック画「ラザロの復活」

「キリストが墓の側に歩み寄って声高に『ラザロよ、出で来たれ』と呼ばわるとき(ヨハネ11:43)、『この』病は死に至るべきものでないことは無論十分に確かである。だがもしキリストがそういわなかったとしても『復活にして生命』(11:25)であるキリストが墓のもとに歩み寄るというそのことだけでもうこの病は死に至らないことを意味してはいないだろうか?」(キルケゴール『死に至る病』岩波文庫、1957年、15-16頁)

 こうしてアンチークリマクスは、第一部で「死に至る病は絶望である」と説き、第二部で「絶望は罪である」と説きます。同書によれば、人類全員が死に至る病(=絶望、罪)に罹患しています。つまり『死に至る病』は、キリスト教教理の罪論を現代人向けにアプデしたものなのです。「こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がった」(ロマ5:12)。『死に至る病』が日本人の心に刺さるのは、コロナよりも蔓延し、コロナよりも恐ろしい病に罹患していることを自覚しているからかもしれません。

 『死に至る病』はキルケゴールが当初出版を予定していた本の前編に当たります。後編が、死に至る病の唯一の特効薬であり健康促進剤、すなわち贖い主であり模範であるキリストを紹介する『キリスト教の修練』に当たります。前者の人気に比べると、後者は日本では読まれることが少ないのが現状です。薄々自身の罪に気付いている日本人に、霊的渇望の自覚を促しましょう。もし「私たちはどうしたらよいでしょうか」(使徒2:37)と問われたなら、贖い主にして模範であるキリストを紹介できるよう備えつつ。

適用

 日本は歴史的にほぼ首尾一貫して(?)キリスト教の福音を受け入れることを拒否してきました。しかし聖書によれば、全ての人間は神の似姿に造られています。つまり日本人も例外なく神の似姿に造られており、神のうちに安らわなければ、決して平安がないのです。本稿冒頭のキルケゴールの表現を使えば、「永遠を無しですまそうと思えば思うほど、その思いがかたくなになればなるほど、ますますもって人は根本においては永遠を必要としている」のです。つまり一見もっともキリスト教が不要に見える日本人―キリスト教なしでも十分礼儀正しく道徳的な日本人―こそが、根本においてもっともキリストを必要としているのです。この点において妻は非常に優れた取り組みをしていると思われるので、いくつかご紹介いたしましょう。

 2013年に私たちがガリラヤ丸子町キリスト教会に遣わされたとき、妻はこう言いました。「良かった。田舎の小さな教会だから、教会の諸集会で忙殺されることなく、教会外の人とたくさん関われる」。実際妻は牧師のかたわら、引きこもりを支援するNPO法人のフリースクールで働いています。さらに引きこもりの働ける職場を提供する合同会社を立ち上げました。また週4日、教会で合計30名ほどの子供たちに英語を教えています。その他の時間に主に教会外の方々にカウンセリングを提供しています。

 妻は職場で年中聖書を読んでいます。そこで人々が聖書に興味を持つようです。そのときに妻はこう言って勧めます。「聖書は宗教書ではありません。歴史、知恵、哲学が詰まっています。信仰がなくても、知識として役に立ちますよ」。

 コロナ禍ご多分に漏れず、私たちも日曜礼拝の説教をLive配信しています。それによって以前以上に、クリスチャン以外の人が説教を聴くチャンスが増えたようです。妻が私の説教について口を酸っぱくして言うのは「それじゃクリスチャンじゃない人は分からない」「キリスト教用語を使わないで」等です。クリスチャンにしか分からない用語と話を聞いていたら、人々は永遠への渇望に気づくどころか、食欲減退となるでしょう。

 10年に満たない奉仕期間ですが、この地で妻が広げた教会外の人脈に感謝しています。願わくは私たちとのかかわりを通して「永遠への飢え渇き」に気づいて頂き、そのような自覚症状が現れたならば時を移さずキリストを紹介できますように。

 「うまくゆけば人は他人のためにいろいろ多くのことをしてやることができるであろうし、うまくゆけば人は自分のおびき出そうと思う処まで彼をつれ出すこともできるであろう。…うまくゆけばキリスト者となることに手をかすこともできるであろう」[9]


[1] 『わが著作活動の視点』白水社、47頁、SKS 16, 32/ PV, 50.

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