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宣教師としてのキルケゴール④

宣教師としてのキルケゴール④

神道信者には神道信者のようになる

セーレン・オービュ・キルケゴール 

宣教師としてのキルケゴール

〜神道信者には神道信者のようになる〜

 セーレン・オービュ・キルケゴール  

荻野 倫夫
ガリラヤ丸子町キリスト教会牧師
中央聖書神学校学生主任

汎神論が宗教における克服された要因を構成し、宗教の基盤であるということは、今や認知されているようである。これによって、シュライエルマッハーの宗教の定義が汎神論にとどまっていることにもまた誤りがある。彼が宗教の中に、普遍的なものと有限的なものが超時間的に融合する要因を作った点において。[1]

キルケゴール『日誌』

[1] SKS 17, 219, DD:9/ JP IV, 3849 n.d., 1837.

はじめに~日本宣教を阻む3番目の障壁:神道

 デイビッド・ルー『日本宣教を阻む5つの障壁』によると、日本宣教を阻む3番目の障壁は「神道」です。「令和元年版の宗教年鑑によると、神道信者の数は日本総人口の48.1%、仏教徒は46.5%で、1.1%がクリスチャンとなっています。その1%の私たちが、合わせて95%になる神仏教徒に伝道しようとするのですから大変なことです。ここでは、48%を自称する神道の信者に焦点を合わせましょう」(ルー、50頁)。「神道の中には…軍国主義とか国粋主義を培う暗い一面がありますが、もう一つの面は生を肯定する、朗らかなイメージです。七五三で神殿に集まる着飾った子供たちの喜びに満ちた顔、それを見つめる両親の誇らしげな表情、神前で結婚する夫婦の愛と将来に向ける情熱、そのすべては希望をもって将来を見つめる日本の姿です」(ルー、48-49頁)。

神道信者に対する融和的伝道のすすめ

 神道学者の間でも、神道を汎神論と見る見解とそうでない見解があります。しかし「汎神論的」とゆるく形容することには、多くの方が同意すると思います。そこで本稿冒頭の引用における「汎神論」は、神道にある程度妥当するという前提で話を進めます。

 通常汎神論的宗教と、キリスト教のような一神教とは対立的に捉えられています。しかし冒頭のキルケゴールの言葉によれば、汎神論は克服されるが、宗教の基盤であるというのです。つまりキルケゴールは両者間に対立だけを見ておらず、汎神論におけるおおらかな宗教性とキリスト教信仰の間にある程度の連続性を見ています。

 実際パウロのアテネでの説教は、汎神論的世界観に対して対立的でなく、むしろ融和的に伝道しています。「『私たちは神の中に生き、動き、存在している』のです。あなたがたのうちのある詩人たちも、『私たちもまた、その子孫である』と言ったとおりです」(使徒17:28)。パウロは聖書外の言葉を二つ引用していますが、その内容は汎神論的です。しかしパウロは汎神論的神観を批判せず、「言ったとおりです」とその内容を肯定しています。

 これまで神道に対する日本宣教の態度は、キリシタン時代の不干(ふかん)(さい)ハビアン『(みょう)(てい)問答(もんどう)』(1605)、ロシア正教のニコライ大主教『日本神道佐野経彦(つねひこ)()(こく)聖教ニコライ教法問答』(1890)など、一般に対決姿勢であるか、時には侮蔑的でした。ところが聖書によれば、私たちはむしろこう語るべきなのです。「確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。[…]あなたがたのうちの神道人も『古代の日本人は、周囲のあらゆる物事に神の遍在を見ていた…』[2]と言ったとおりです」(使徒17:27-28参照)。神道に対する融和的アプローチは、画期的でありかつ聖書的なのです。また侮蔑的アプローチは、愛を至上とするキリスト教の価値観とも矛盾していると思われます。

[2]  戸矢学『神道入門』河出書房新社、2016年、14頁

神道信者への宣教戦略①:自然の中に聖なるものを感じる日本的霊性を接点とする

 神道信者への宣教戦略の第一は、自然を()で、自然の中で神を感じる神道的感性(宗教性)を接点として利用することです。古代神道から連綿と続く日本的自然観と神概念は、神社を囲む鎮守の森に結実しています。「神社が鎮まる鎮守の森とは、単なる自然の森ではなく、神様の住まう聖なる森[でした。] エコロジーなど意識しなかったはるか昔、大自然の中に神様を感じた日本人は、身近な森に神社を祀ってきました」[3]。キルケゴールもマタイ6:25-34「空の鳥、野の花」の説教の中で、自然の中にある喜びを以下のように語っています。

…太陽はあなたのために輝くこと—そして、あなたのために、太陽が疲れると月が昇ること、さらに星がまたたくこと、冬が訪れること、全自然が変装して、よそよそしくふるまうこと—しかもあなたを楽しませるために。緑が萌えいでること、森が美しく成長して花嫁の面影をたたえていること—しかもあなたを喜ばせるために。秋になること。鳥が旅立ってゆくこと…森が次の春のために装いをしまうこと、これは次の春があなたを喜ばせうるためにである。…もしこれが喜べないなら、喜ぶべきものは何一つないと言いたいのである(キルケゴール『野の百合と空の鳥』)[4]

[3]   櫻井崇「神道の立場から」、「神道セミナーシリーズ3」『2014年 国際神道セミナー キリスト教と神道との対話―二つの宗教が探る協調への道筋―過去・現在から未来へ向けて―』NPO法人神道国際学会編、2015年、 27頁。(以下、『キリスト教と神道との対話』NPO法人神道国際学会編)

[4]  『キルケゴールの講話・遺稿集 6』新地書房、300頁/ SKS 11, 43-4/ WA, 39-40.

 歌人の西行(さいぎょう)法師(ほうし)(1118-1190)や芭蕉(1644-94)、水墨画家の(せっ)(しゅう)(1420-1502)など、自然への愛は日本の伝統芸術作品に遍在です。自然を通して聖なるものにつながることは、日本人にとってごく自然なことでした。

 私の個人的な体験では、未信者の日本人は、イエス様の十字架と復活を語るパウロ神学には抵抗を示す人が多いです。けれども「野の花、空の鳥」のような自然に即して語られる福音には、最初から興味を示すように思います。

 他方で、本稿冒頭のキルケゴールの言葉によれば、汎神論は克服されるべきです。使徒パウロもギリシャの汎神論とキリスト教をつなげるだけでなく、創造主である神や死者の復活などを宣べ伝え、汎神論を克服しています(使徒17:24-31)。ですから汎神論を克服していく必要があります。

神道信者への宣教戦略②:「知られていない神」を拝む日本人に、じっくり時間をかけて聖書の神を紹介する

 

 神道信者への融和的宣教の第2は、「知られていない神」を崇めている神道信者に「あなたが知らずに拝んでいるもの、それを教えましょう」と日本人の真の神である主を紹介することです(使徒17:23)。西行(さいぎょう)法師(ほうし)は伊勢神宮に参拝し、このような歌を詠んだと言われています。「何事の おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」。ですから宗教学者の山折哲雄は、西洋の宗教と日本の宗教を比較し、西洋は信じる宗教だが、日本は感じる宗教である、と言っています。平均的日本人は、「何」がまつられていて、「何」を拝んでいるか、それほど関心がないようです。どんな神であれ「苦しい時の神頼み」をするか、何か非日常的な神秘体験をしたいと漠然と考えているようです。

 神は自然を通し、ご自身の存在を知らせて下さっています(詩篇19:1-6、ロマ1:20)。クリスチャンには「何事がおわす」のか、日本人が知らずに拝んでいる方を知らせる責任があります。「『世の偶像の神は実際には存在せず、唯一の神以外には神は存在しない』ことを私たちは知っています」(Iコリ8:4)。

 ここで融和的宣教は、神の紹介に時間をかけます。最初から「神、罪、救い」で始めると、平均的な日本人からしたらギャップが大きいのです。融和的宣教は、最初に決断を迫らず、受け手が美味しく食べ、良く消化できる「霊性」だけを提供します。パウロの表現では「固い食物」を与えず「乳」を飲ませるのです(Iコリ3:2)。そうして忍耐強く、じっくり時間をかけて、最終的に聖書が提示している通りの神を紹介するのです。西洋や他の文化で成功した宣教方法でなく、典型的な日本人のお口に合う福音のアペタイザーはどんなものか、改めてじっくり宣教戦略を練り直す必要があるでしょう。しかし時間と忍耐を使いつつも、最終的には福音の全体像(ラディカルな殉教のキリスト教)を提供することもまた宣教の欠けてはならない点です。

神道信者への宣教戦略③:日本が国家神道の名の下に行った戦争犯罪について悔い改めるよう導く

昭和天皇 最後の侍従日記 (文春新書) | 忍, 小林, 共同通信取材班 |本 | 通販 | Amazon

 神道信者への宣教戦略の第3の道は、1868年から1945年まで日本が国家神道の名の元に行った戦争犯罪を悔い改めるよう導くことです。「…国家神道、戦争について語り合う機会はいずれ、持つべきでしょう。政治的な問題は避けては通れません」[5]。最初に当たり、私の個人的体験を語ります。私がフィリピンの神学大学院に留学した時のことです。フィリピンの小さな教会で説教をする機会がありました。フィリピン人牧師は「かつて日本は敵国であり『バターン死の行進』(1942年)が行われた。それが今は友人として神の言葉を私たちに語ってくれる」と私を紹介しました。恥ずかしながら、私はそれまで自分の民族がかつてフィリピンで行ったことを知らずにおりました。講壇に立つ直前、突如そのような自分の民族が目の前の会衆の祖父母の世代に対して行った非道を知ったのです。その被害者の孫の世代が、笑顔で私を歓迎する事態に、私はすっかりうろたえてしまいました。そのまま説教を始めることができず、私の民族が過去行った赦し難い罪について、フィリピン人の兄弟姉妹に謝罪しました。涙があふれてくるのを止めることができませんでした。例え私の出生30年前の出来事であったとしても、フィリピンにおける日本人の極悪非道に、私は激しいショックを覚えました。 

 私の場合は「幸運な」例だと思います。なぜなら自分の民族の犯した過ちを認め、謝罪するチャンスが与えられたのですから。「不幸な」例は、昭和天皇(1901-1989)です。崩御の二年前、小林(こばやし)(しのぶ)侍従(じじゅう)(1923-2006)に、戦争責任のことを言われつらい、と漏らしていたと言います。心中察するに余りあります。当事者ではない私でさえ、その凄惨な内容は衝撃でした。昭和天皇の戦争責任について議論百出ですが、少なくとも国家の意志の最終機関である国家元首であり、国家神道という枠組みでは当時現人神(あらひとがみ)です。私のような後の世代ではない、まぎれもない当事者です。また私より遥かに何が行われていたか正確に知っていたはずです。例えGHQが昭和天皇の免責を決定したとしても、戦争は天皇の名の下に行われていたのです。

[5]  ジョン・ブリーン「問題提起『これまでの歴史を振り返って』」、
『キリスト教と神道との対話』NPO法人神道国際学会編、21頁

 ドストエフスキーの『罪と罰』で、ラスコーリニコフは殺人を犯します。その罪を告白しない間、彼は奇妙な熱病にさいなまされます。しかし自首してシベリア送りになった後、ソーニャが彼のために読んだヨハネ11章の「ラザロの復活」を追体験し、彼は喜びとよみがえりの思いに満たされるのです。罪を告白するチャンスが与えられるのは幸福であり、罪を告白し悔い改めることができないのは不幸なことなのです。

 日本の広島と長崎に原爆が落とされ、日本は唯一の被爆国となりました。その結果、全国民は加害者意識よりも被害者意識を持つことになります。ですが日本は国家神道の名の下に戦争を行い、1868年から1945年までの間に、2000万人のアジア・太平洋各国の人の命を奪ったこともまたまぎれもない歴史的事実です。私たちはそのことを自覚しているでしょうか。私たちはナチスが600万人のユダヤ人の命を奪ったことを「恐ろしい蛮行」とみなします。ではかつて日本が行ったことについてはどうでしょうか。

 この点、私たちクリスチャンがまず率先して心から真摯に悔い改めるべきではないでしょうか。第1に日本人として自民族のなした過ちについて。英「タイムズ」紙東京支局長リチャード・ロイド・パリーによれば「かつての敵国に自分たちの反省を納得してもらうという課題において、…日本は失敗したのだ」[6]。第2に日本人クリスチャンが、第二次戦争中に「否」の声を挙げなかったことについて。「…日本のキリスト教会は1930年以降、天皇と国家に忠誠を誓うことは信仰と矛盾しないとして、次第にむしろ積極的に戦争に協力していくことになる」[7]。たとえ当事者でなくても、日本人として、クリスチャンとして、上記2点において、21世紀の日本人クリスチャンである私たちに、政治的、宗教的責任があると言えないでしょうか。

[6]  リチャード・ロイド・パリー「平成日本と天皇――『アキヒトイズム』とは何か」、   
『海外メディアは見た不思議の国日本』クーリエ・ジャポン編、講談社現代新書、2022年、229頁
[7]   高橋哲哉『靖国問題』ちくま新書、2005年、133-4頁

 キルケゴールは仮名著者クリマクスに、人を認罪に導く方法を、以下のように語らせています。

宗教的講演にはときおり、見当違いの術策の例が見られる。つまり講演者はある個人の罪責を頭ごなしに攻撃〔する〕…。…その個人を大勢の他人の前で醜悪に描けば描くほど…彼の身ぶり手ぶりがいちばん激しくなったとき彼は成功からもっとも遠いのである…。それと違う仕方でやるほうがうまくいく。つまり、宗教的講演をする人が「神の前に謙虚にへりくだり、倫理の王者的権威に服従しつつ」おそれとおののきをもって、自分自身の問題として罪責感を《永遠の幸い》の観念に結びつけるがよい。そうすれば牧師はひたすら自分のことばかり語っているのだと聴衆に思い込ませながら、聴く人を直接挑発するのでなく、間接的に影響をおよぼすことになる。…説教壇上では自分の胸をたたくほうがうまくゆく…[8]

[8]  『哲学的断片への結びとしての非学問的あとがき(下)』白水社、256-7頁/ SKS 7, 482, asterisk / CUP I, 530-1, asterisk.

 クリマクスは、説教者が講壇で理想的な罪人を描き断罪しても、成功からは程遠いと言います。神学的に言って、罪はいつも「神の前」における罪です。自身被造物に過ぎない説教者が、例えどれほど極悪な「良いサンプルの」罪人を裁いたとしても、きよい神の前にはどんぐりの背比べなのです。会衆は「罪は比較の問題」「程度の問題」という誤った神学的観念を刷り込まされることとなります。心理学的に言って、牧師が誰かを断罪するなら、それは劇場を鑑賞しているようであり、自分とは関係のない他人事のように感じさせてしまいます。会衆は「牧師は立派だ」と思うかもしれませんが、自分の罪の問題を問うことはしないのです。

 しかし講壇で牧師自身が悔い改めるなら、全能の神の前に、被造物である牧師が自分の罪を問ういているので神学的に正しいです。加えて心理学的に、講壇で牧師が神の前にただひとり立ち、自分の罪を問うことで、会衆席にいる者もまた神の前にただひとり立ち、各々自分の罪を問うよう影響を及ぼすことができるのです。

 上記キルケゴールの言葉によれば、日本人クリスチャンが、神道信者の戦争責任を責めるのは戦略的にうまくいきません(ルカ18:11-12)。むしろ日本人クリスチャンこそが、真剣に神の前に自民族の罪を問い、自分の胸をたたくべきです(ルカ18:13)。そのとき私たちの周りにいる方々も、国家神道の名の元に戦争犯罪を行った日本人の末裔として、己の責任と罪を問われ、それぞれ胸をたたくように導かれるのではないでしょうか。日本が「人道に対する罪」を背負い、被害者に対して然るべき謝罪をし、アジア・太平洋の隣人諸国と和解できることを祈ります(マタイ5:23-24)。何よりも、本稿の本来の目的である、神道信者にキリストの救いを得ていただくための機縁となることを祈ります。「ただひとえに罪の自覚においてのみ、門が開かれている。そのほかの道を通ってなかにはいろうとすることは、キリスト教に対する大逆罪である」[9]。クリスチャンが間接的に影響を与え、神道信者の方が真に自己の罪を問うことができるなら、キリスト教の門をくぐっていただく準備となるでしょう。

[9]  『キリスト教の修練』白水社、107頁/ SKS 12, 80/ PC, 67-8.

適用

 ある未信者の集まりのクリスマス会に招かれ、クリスマスの話をして欲しいとリクエストされました。私は上皇ご夫妻のお話をしました。

 「2011年3月11日、東日本大震災が起きました。甚大な被害が出、命からがら生き残った被災者も、心身ともにボロボロでした。ある家族は4人が犠牲になり、2人だけが生き残りました。生き残りのひとりは、死んで行った家族に対して罪意識を感じ『死んだ方がマシだった』と『自殺』をほのめかしていたそうです。

 4月27日、当時の天皇皇后両陛下が被災者を訪問しました。天皇は跪いて、先の生き残った2人の被災者と言葉を交わしました。以来、いつ自殺するともしれなかった生き残りの被災者の方がもう『死ぬ』とは言わなくなったそうです。天皇が跪いて、同じ目線で声をかけてくれたおかげで、震災から立ち直る元気が与えられたのです。

 この中にも、程度の差こそあれ、先ほどの被災者のような辛さを抱えている方がおられるかもしれません。クリスマスは、神ご自身があなたを訪問するために地上に下って来られた日です。跪いてあなたに仕えるため、馬小屋に生まれて下さいました。クリスマスは神が人となり、あなたと同じ目線で声をかけてくれた日です。クリスマスは、あなたの心に一生消えない希望の光を灯します」。

 神学的に注意深く準備し、何よりも神の聖霊に導かれ、私たちは混淆宗教の危険を避けつつ、日本人のもつ自然な霊性にうったえかける福音の提示をすることができます。

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