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宣教師としてのキルケゴール①

宣教師としてのキルケゴール①

〜あなたも私も宣教師〜

セーレン・オービュ・キルケゴール 

宣教師としてのキルケゴール①

〜あなたも私も宣教師〜

 セーレン・オービュ・キルケゴール  

荻野 倫夫
ガリラヤ丸子町キリスト教会牧師
中央聖書神学校学生主任

キルケゴールは、哲学者、心理学者、神学者、文芸評論家、あるいは詩人ではなく、何よりもまず宣教師だ。彼を、クリスチャンを自称する「キリスト教国の異教徒」への宣教師と理解するのが最も理に適っている。

C・ステファン・エヴァンズ

(アメリカのキルケゴール研究者、筆者の論文指導教官)

はじめに~宣教師としてのキルケゴール!?

 キルケゴールは、19 世紀のデンマーク人著作家です。一般には「哲学者」とりわけ「実存哲学の父」として知られています。

「実存哲学」の枠組みで語られる場合、これらの人物の名があげられることが多い。
左上:キルケゴール(1813-1855)、右上:ドストエフスキー(1821-1881)、
左下:ニーチェ(1844-1900)、右下:サルトル(1905-1980)

ですが私は「キルケゴールはすべてのキリスト者は宣教師として召されていると信じ、自身『キリスト教国(デンマーク)の宣教師』を自認していた」というテーゼを主張します。なお本稿において「宣教師」と訳した言葉は、キルケゴール自身の言葉(200年程前のデンマーク語)ではMissionairで、現代デンマーク語ではmissionærです。英語のmissionaryと綴りが似ていることからもわかるように、意味は「その教会または宗派の信仰を宣べ伝えるために、教会または宗派から派遣される人」(『ポリチケンの新デンマーク語辞典』)です。ですから私たちが「宣教師」という言葉でイメージするのとほぼ同じことを、デンマーク人たちもイメージしたはずです。ただしこの後見るように、キルケゴールはそこに独特の意味合いを持たせましたけれども。

キルケゴール、宣教師への思いを熱く語る

 キルケゴール自身の解説によれば、キルケゴールの全著作は「クリスチャンとなるとはどういうことか」という一点に集約されます。「私の全著作活動の思想全体は、いかにしてキリスト者となるか、という一事につきることをつねに念頭においていただくよう、好意ある読者に切に私は最後のお願いをする」(キルケゴール『わが著作活動の視点』)。

 さらに彼によれば、真のクリスチャンとなるため、人は不可避的に宣教師となります。「しかしながらもし君が、キリスト教を体得したいという深い飢え渇きを感じるなら、ええと、そうだな、キリスト者の性質を身にまとい—その性質に厳密な関係を結んで—出て行きたまえ。教えのために異教徒の間または『キリスト教国』で証人となるために、宣教師として」(キルケゴール『日誌』)。キルケゴールによれば、キリスト教国であろうと異教国であろうと、クリスチャンは必然的に宣教師となるのです。先ほど、キルケゴールの全著作の思想全体は「キリスト者となるとはどういうことか」と総括されるいう彼自身の説明を見ました。だとしたら、彼の全著作は「宣教師となるとはどういうことか」を求めていることになります。実際日誌の中で、彼は自分のことを「キリスト教国への宣教師」と呼んでいます(キルケゴール『日誌』)。

 キルケゴールの「宣教師」は広い意味を持っています。キルケゴール自身、宣教団体から海外へ送られた、いわゆる宣教師ではありませんでした。ほぼ自国デンマークの中で一生を過ごしましたし、一般の職業の定義によれば彼は作家でした。しかし彼は、自身のことをキリスト教国における、宣教作家と捉えていました。キルケゴールによれば、各クリスチャンはそれぞれの召しに従って宣教師となることができるし、なるべきなのです。

デンマークの首都コペンハーゲンの
王立図書館にあるキルケゴール像

キルケゴールの「宣教師」概念

 キルケゴールの「宣教」は、「未信者を回心に導くこと」よりも広い概念をもっています。全てのクリスチャンは地上で未完成なので、より良いクリスチャンになる余地があります。ゆえにキルケゴールの「宣教師」は、既にクリスチャンである者にも働きかけ、その建徳に努めます。キルケゴールにとって、クリスチャン全員が宣教師で、出会う誰に対しても―牧師、クリスチャン、未信者―その建徳に奉仕することができます。隣人が「1ミリ」でも神に近づく奉仕ができたなら、その人は立派な「宣教師」なのです。

 ところでなぜ「宣教師」なのでしょうか。キルケゴールの「宣教師」という語彙には、彼流の「キリストに倣う」矜持が込められています。「キリストに倣う」ことはキルケゴールにとって重要で、とりわけ後期の彼の思想の中心的位置を占めています。キリストは神であるのに、己を空しくして人となり、かつ宮殿に生まれず人々の奴隷となりました。このキリストの受肉は、空前絶後の「遠出」と言えます。クリスチャンもまた(キリストの受肉に倣って)自分のコンフォートゾーンから出で、相手の立場になる「遠出」をする、これがキルケゴールの宣教論であり、この概念は「宣教師」という語彙でしか表せないのです。いわゆる宣教師は、海外に行くなどして、地理的に遠出します。キルケゴール的「クリスチャン即宣教師」は、精神的に遠出をします。たとえ地理的な遠出はしなくても、自分から精神的に程遠い「隣人」という「異国」へ福音を携えていく。キルケゴールの「宣教師」は、他者の異質性を認識し、己を空しくして相手の立場に立ち、本来言語も文化も違う他者の世界に、福音を「翻訳」して伝えるのです。

 いな、むしろ、かれは立って待たずに、捜しに出て行きたもう、牧者が迷った羊を捜すように、また女がなくした銀貨を捜すように。かれは出て行きたもう、いな、いな、かれは出て行きたもうた、どんな牧者よりも、どんな女よりも、無限に遠いところまで。まことにかれは神であることから人になることへの、無限に遠い道を行きたもうたのである。罪人を捜すために、かれはこの道を行きたもうたのである(アンチ-クリマクス(キルケゴール創作の仮名著者)『キリスト教の修練』)。

 このイエスの姿に倣うなら人は必然、自分の慣れ親しんだ場所から出て行って、相手のいる(精神的に)遠い場所―自分とは言語も習慣も文化も違う、いわば異国―に遠出しなければならない、これすなわち宣教師である…という論理が、「クリスチャンは全員宣教師」という暴論(?)の背後にあります。いわゆる海外宣教師だけでなく、また訓練を受けた伝道者や牧師だけでなく、すべてのクリスチャンは、自分の快適な場所から出て行く「宣教師」なのです。

机に向かい執筆するキルケゴール。当時既にカメラはあったが、キルケゴールは写真に撮られることを嫌っていたと言われており、写真は一枚も残っていない。

適用

 2011年、私はキルケゴール研究で哲学博士の学位を取得するために、牧師を休職してオクスフォードに留学しました。「さて、勉強に集中するぞ」と机に向かい、キルケゴールの日誌を読み始め、以下の一節に出会います。

「しかしもし私が全員真実のキリスト者である場所に住んでいたなら」。それは不可能だが、それに答えるとすれば「もしそうだとしたら(そんなことはあり得ないが)さて、それでは君は君自身で宣教師だ」。しかし人は、キリスト者になることは宣教師になることだというのを、すっかり忘れてしまっている。
 休息中のキリスト教は、それ自体キリスト教ではない。そのような状態が現れたら、それが意味するところは「宣教師になれ」ということだ。
 休息中の、停滞するキリスト教は障害となる。それはキリスト教国の病であり、空恐ろしい障害だ。

 当教団の牧師としては休職しても、クリスチャンを「休む」訳ではないのです。危うく「停滞するキリスト教」「空恐ろしい障害」となるところでした(危ない、危ない)。以来、オクスフォードでインターナショナル・チャーチを始めようと、現地で知り合った韓国人の友人たちと祈り始めました。結局奨学金が下りないことや、所属研究所が契約する大学の切り替えで空白の期間ができることなどを理由に、4か月ほどして日本に帰国し、牧師職と学位取得の二足の草鞋を履くこととなります。しかし教団で正式に働いているか否かではなく「クリスチャンであるゆえに宣教師」と学んだのは、私にとって貴重なライフ・レッスンでした。

おわりに~宣教師のすゝめ

 日本にクリスチャンは100万人(しかいない)と言われています。もしキルケゴールが言うように「クリスチャン即宣教師」ならば、日本に宣教師は100万人(も)います。もっとも「100万人の宣教師」と言っても、本人が自覚と情熱をもってその真理にコミットしなければ意味がありません。キルケゴールも、ただおうむ返しに正論を口にすることには意味がない、と日誌で論じています。キルケゴールは「覚醒」という言葉を好んで使います。後はあなたと聖霊に委ねます。あなたは(キルケゴールが言うところの)宣教師として召されているのでは?「新約聖書によれば、キリスト教はたえざる宣教である。宣教師であるすべてのクリスチャン、『出て行ってわたしの教えを宣べ伝えよ』」(キルケゴール『日誌』)。

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コメント一覧 (1件)

  • 実存哲学について語られたら手も足も出ないことになるのではないかとドキドキして開きました。キリスト者の私には、ふんふんと、読めば理解できることが書いてあったので、読み終えることができました。しかも、キルケゴールさんの考えに共感を覚えました。私は、聖書を読み、聖霊様に解き明かしていただいて信仰を養ってきています。多くの信仰者の証を聴き聖書理解を深めました。神学らしきものを読み聞きして信仰を堅固なものとしていただきました。このたびは、キルケゴールさんの信仰の在り様を解き明かしていただき、さらに信仰者としての在り様を固くすることができると感謝します。もっともキルケゴールさんの信仰と、解き明かしてくださる荻野先生の信仰をどの程度理解できるかは、いささか心もとないのですが。6月13日の講演会も期待が高まります。荻野先生ありがとうございます。
    (妄想)遠藤周作さん、三浦綾子さん等々の著作家も宣教師???

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