宣教師としてのキルケゴール⑥
〜見えざる禁制の高札〜
セーレン・オービュ・キルケゴール
〜見えざる禁制の高札〜
セーレン・オービュ・キルケゴール
宣教師は、聖なる弱さによって人類に従順を教えるだろう-彼らが邪悪な反抗心で彼を殺し死に至らせることで、神への従順を[教えるだろう]。[1]
―キルケゴール『日誌』
[1] SKS 20, 281-2, NB3:77/ JP, II 2004 n.d., 1847.
はじめに~日本宣教を阻む5番目の障壁:見えざる禁制の高札
デイビッド・ルー『日本宣教を阻む5つの障壁』によると、日本宣教を阻む5番目の障壁は「見えざる禁制の高札」です。
「伴天連門徒御禁制也、若有違背之族は、忽不可遁其罪科事」のキリシタン禁制の高札が長崎に立ったのが慶長17年(1612年)、翌年宣教師が追放され、翌々年禁制が全国に広がりました。
徳川の禁制は政府がなしたもので、現代の社会にはそういう禁制はありません。しかし言論と信仰の自由を標榜するこの世に、キリスト教禁制の見えざる高札が「政治的に正しい」という名の下に厳然として立っています(ルー、77頁)。
17世紀から19世紀における日本の隠れキリシタンの迫害は、世界のキリスト教史上でもまれにみる残酷なものでした。明治6年(1873年)、禁制の高札は撤廃され、現代では日本国憲法において信教の自由が認められています。しかしキリスト教という異物を受け入れることは「政治的に正しくない」という「同調圧力」があるとルーは言います。ルーはこれを「見えざる禁制の高札」と呼んでいます。皆様も檀家制度や仏式の葬儀において、「見えざる禁制の高札」の存在を感じたことはあるのではないでしょうか。あるいは日曜礼拝に行き、町内のお祭りに加わらないことで、「空気を読め」「和を乱すな」と、キリスト教信仰に対する迫害を経験したことがあるかもしれません。福音は間違いなく希望と喜びの源ですが、キリストの名のために、すべての人に憎まれることもまた事実です(ルカ21:17参照)。
見えざる禁制の高札に対する宣教戦略①:絶対的危機と相対的危機を区別すること
「見えざる禁制の高札」に対する宣教戦略の第1は、絶対的危機と相対的危機を区別することです。キルケゴールは、19世紀デンマークで、人々が危機と思っていないことを危機と洞察し、またそのことを指摘しました。僭越ながら、現代日本でも、真の危機が危機と判断されず、相対的な危機に多くの人の目が行っているように思われます。そうなると結果として日本のキリスト教会は、原因療法に手をつけず、対症療法に汲々とすることになります。
具体的には、「未だにクリスチャン人口が1%以下」が本当の危機でしょうか。日本人クリスチャンは、「たくさんのクリスチャンがいていいな」とキリスト教国をうらやましがるかもしれません。キルケゴールは、傍目には「人口のほとんどがクリスチャンのキリスト教国デンマーク」で危機を叫びました。つまりキルケゴールによれば、クリスチャン人口の多い少ないが危機的であるかどうかではないのです。もしキルケゴールが正しいなら、「宣教の停滞」を絶対的な危機と見誤ることで、本当はそれよりも恐ろしい危機に盲目となり得ます。
さて、宣教の停滞が本当の危機でないとすると、何が本当の危機なのでしょうか。むしろ宣教の停滞を危機と見誤ることで、どんな危機が見逃され、知らず知らずのうちに教会に忍び込むのでしょうか。危機には、1)私たち牧師が招来し得る危機、2)クリスチャンが招来し得る危機、があります。
1)牧師が招来し得る危機
まず牧師が招来し得る危機は、キリスト教の宣教の理念に対する妥協です。アンチークリマクスの言葉を引用します。「わたしが説教壇という聖なる場所に登るときに――教会はあふれるばかりに満員であろうと、あるいはがらあき同然であろうと」[2]、それは一番大事な問題ではありません。クリスチャンであふれるキリスト教国か、宣教が遅々として進まない異教国であるかは、最も大事な問題ではないのです。では何が最も大事か。
[2] 『キリスト教の修練』358頁/ SKS 12, 228/ PC, 234.
――そこに見える聴衆とは別に、もうひとりの聞き手の前に、すなわち見えざる聞き手である天にいたもう神のみ前に、わたしは立つのである。そこに立つわたしの目には、たしかにそのみ姿を見ることはできないが、しかし神はほんとうにわたしを見たもうのである。この聞き手は、わたしの述べることが真実であるかどうか、またわたしの述べることがわたしの心のうちにおいては真実であるかどうかを厳密に聞きしらべ、[…]ありのままのわたしの生活が、わたしの述べることをほんとうに具現しているかどうかを見きわめたもうのである。[…]真実であるとは、自分が宣べ伝える事柄を身をもって具現しているということである。あるいは、そうなることを追い求めることである。あるいは少なくとも、自分がそうでないことを誠実に告白することなのである。[…]このわたしが説教し、語る者となるということは、そのような冒険(vovelig)なのである[3]。
[3] 『キリスト教の修練』358-9頁/ SKS 12, 228-9/ PC, 234-5.
右肩上がりの教勢報告が本当に大事ではないのです。むしろ-それが魂の獲得という純粋な動機であれ、あるいは虚栄という不純な動機であれ-教勢報告が一番の関心事になると、牧師は真に危険な(vovelig)ことを見失います。私たち牧師は他の誰よりもまず、自分自身が福音の真理の前に頭を垂れ、それに従って生きようとし、またはそうできない場合そのことを誠実に講壇で認めるべきなのです。
キルケゴールも、一人でも多くの人が救われることを願い、またそのために彼の著作活動を行っていました。しかし彼によれば、神の助けによって、キリスト教の宣教内容を正しく提示すること、それが彼の最も大事な使命でした[4]。「何を宣教するか」また「どう宣教するか」をゆがめ、宣教の言葉に不忠実となることが本当の危機を招くからです。
[4] SKS 13, 23-4/ PV, 16.
2)クリスチャンが招来し得る危機
次にクリスチャンが招来し得る危機は、「戦闘の教会」の代わりに「勝利の教会」となってしまうことです。教会は「戦闘の教会」となるべきです。
ここで本稿の同伴者として、世界的に著名な遠藤周作の小説『沈黙』取り上げます。『沈黙』はフィクションですが、その舞台はノンフィクション的な17世紀日本であり、島原の乱収束後のキリシタン弾圧が最も過酷であった時期です。目を覆いたくなるほど残酷な拷問を描くことで、『沈黙』は史実におけるある種の真実を、すなわち「戦闘の教会」の姿を映し出しています。
『キリスト教の修練』において、キルケゴールの仮名著者アンチークリマクスは、教会は勝利の教会ではなく、戦闘の教会にならねばならない、と述べます。どういうことでしょうか。アンチークリマスクスは、勝利の教会におけるクリスチャンを、以下のように描写します。
[5] 『キリスト教の修練』325頁/ SKS 12, 210-1/ PC, 215.
アンチークリマスクスは、勝利の教会のクリスチャンは、世的に栄えることや経済的に恵まれることを勝利と定義(勘違い)していると批判します。これに対してキリストはどうだったでしょうか。
キリストは一度たりとも世において勝利を収めようとはしたまわなかった。かれは苦しみを受けるためにこの世に来たりたもうた。そうすることをかれは「勝つ」と呼びたもうたのだ。だがもしも人間の焦りと傲慢とが、その思いや考えをキリスト教によって造り変えてもらうかわりに、逆に自己の思いや考えをキリスト教にこじつけるとすれば、もしもこの偽りが勢いを得るならば、「勝つ」ことはこの世での勝利であるという、もとのままの人間的な流儀に逆もどりし、キリスト教は抹殺されてしまうのである(afskaffet)[6]。
[6] 『キリスト教の修練』340頁、強調原著者/ SKS 12, 219/ PC, 224, emphasis in original.
アンチークリマクスが、このようなキリスト教の危機について、見た目には平和な19世紀中頃のキリスト教国デンマークで提唱したことに注目下さい。現代日本も見た目は平和です。禁制の高札と苛烈な迫害の過去など、夢か幻のようです。しかしその安逸の中で、クリスチャンがのうのうと教会に世的な勝利を密輸入することは、キリスト教を抹殺する(afskaffe)とアンチークリマクスは警告します。
見えざる禁制の高札に対する宣教戦略②:日本に合わせてキリスト教を作り変えるのでなく、キリスト教に日本を造り変えてもらう
「見えざる禁制の高札」に対する宣教戦略の第2は、日本にキリスト教を合わせて作り変えるのでなく、キリスト教に日本を造り変えてもらうことです。『沈黙』の中で、「転んだ」(棄教した)先輩司祭は後輩司祭にこのように語ります。「この国は沼地だ。やがてお前にもわかるだろうな。この国は考えていたより、もっと恐ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」[7]。「良かれ」と思って、この先輩司祭と同じ前提に立ち、また宣教戦略を練るクリスチャンがいます。いわゆる「日本的キリスト教」を提唱する方々です[8]。
キルケゴールは両極端の姿勢を斥けるでしょう。一方で、「キリスト教は真理だから」ということで、日本という文脈を一切無視し、ただひたすらキリスト教という伝家の宝刀を振りかざす極端。他方で、日本という文脈に合わせ、変えてはいけないキリスト教の真理を改変し、「日本的キリスト教」を提唱する極端。遠藤周作は後者の部類に属するでしょう。
キルケゴールはどちらも取りません。宣教戦略としては、使徒パウロがIコリ9:19-23で述べるように、未信者の目線に立ち、彼らに仕えます。しかしキリスト教教理については、やはり使徒パウロがガラ2:11-14で述べるように、それがユダヤの文脈であれどの文脈であれ、文脈に合わせて救済論を改変してはなりません。
東京神学大学理事長・近藤勝彦は、今の日本を終末論的な視点で見ることを提唱しますが、私もそれに賛成します。「日本文化の本質を、歴史的に理解するということは、その本質の完成を将来の終末論的可能性の中に見て、現になお形成途上にあるものとして理解することである」[9]。私たちは終末における神のあがないの御計画を遥か見て、その完成に向かう「今」という歴史の一断面に生きていることを認識すべきです。現時点での日本宣教の困難と実を結ばないことを盾に、近視眼的になってはなりません。忘れてはならないのは、日本を、日本人を、日本文化をデザインなさったのは神だということです。神が着実に日本の歴史を導いておられ、日本の完成も神によるのです。真に「日本的なもの」は、私たちが性急にキリスト教を現時点の(そのときどきの)日本に合わせて変えてしまうことによっては達成させられません。現時点の日本は過ぎ行くものであり、完成の途上です。キリスト教は、自らは変えられずに、すべてのものを-日本も-本来の創造の目的に沿って造り変えるのです。そしてキリスト教が日本を造り変える時に、真に日本的なものが達成されるのです。
[9] 近藤勝彦『キリスト教弁証学』教文館、2021年、315頁
見えざる禁制の高札に対する宣教戦略③:殉教者となること
「見えざる禁制の高札」に対する宣教戦略の第3は、殉教者となることです。殉教者の宣教がいかにパワフルか、キルケゴールはこう述べます。「暴君は死んでその支配は終わる。殉教者は死んでその支配が始まる」[10]。
[10] Søren Kierkegaard, The Journals of Kierkegaard, trans. Alexander Dru, New York: Harper Torchbooks, 1959, 151.
これを聞いてある方々は、キルケゴールの同時代人の司教マルテンセンのように、「現実に投石されなければ、真理の証人にはなれないのか?」[11]と尋ねたくなるかもしれません。つまり宣教師の条件は、信仰のゆえに迫害され、殺されることなのか、と。遠藤周作の『沈黙』が投げかけた重要な問いは、全てのクリスチャンが、殉教者になれるほど強くはない、ということです。遠藤が示したのは、平凡なあるいは弱いクリスチャンは、棄教者さえ受け入れる母性的宗教を必要とする、ということでした。もしキルケゴールが全クリスチャンの殉教を強制するなら、それは遠藤が『沈黙』で力強く拒否した父性的宗教を強弁するだけ、とは言えないでしょうか。
[11] Joakim Garff, Søren Kierkegaard: A Biography. Princeton, N.J.; Oxford: Princeton University Press 2005, 736.
キルケゴールの仮名著者アンチークリマクスは、殉教について以下のような説明を加えます。「わたしは『人を不安に陥れる』ことに喜びを感じたおぼえは一度もないのだ。わたしは、悩める人、病める人、悲しめる人にむかって慰めと安らぎの言葉を語りうる力を与えられていることを自覚している。そしてそれが喜びを感じさせてくれたことも自分で知っている」[12]。アンチークリマクスは、人を不安にさせるために「全てのクリスチャンは殉教者とならねばならない」と述べているのではない、と言います。彼はむしろ、弱さを覚える人に優しく語りかけ、神の慰めが与えられることを喜びとしていました。「わたしは、あらゆるキリスト者が殉教者であるとか、殉教者とならぬ人はすべてキリスト者ではないとか主張したことはけっしてない」[13]。ではなぜ彼は「殉教者」という用語を使うのでしょうか。彼はクリスチャンが以下の二つの段階を踏み、かつそのサイクルを繰り返すことを想定しているようです。1)無力さを認め、謙虚に告白すること、2)キリストの恵みの必要を知り、恵みに逃れ行くこと。
[12] 『キリスト教の修練』345頁/ SKS 12, 221/ PC, 226.
[13] 『キリスト教の修練』345頁/ SKS 12, 221/ PC, 226-7.
1)無力さを認め、謙虚に告白すること
アンチークリマクスが「殉教者」という用語を使う第一の理由は、この言葉を使うことによって、私たちは、キリストのために死ぬという理想的なキリスト教から、自分がはるか遠いことを、神の前で認め、謙虚に告白できるようになるからです。アンチークリマクスはこう述べます。「…人はだれでも(そしてわたしは自分自身をもそのひとりに数える)、まさに自分がまことのキリスト者たりうるためにこそ、謙虚に告白しなければならない…」[14]。この言葉は興味深いです。まことのクリスチャンは、ある条件なしにはまことのクリスチャンではないのです。その条件とは、自分が理想的なキリスト教から遠く離れていることを認めることです。遠藤周作の『沈黙』は、全てのクリスチャンが殉教できるほど「強いクリスチャン」ではなく、殉教できない「弱いクリスチャン」もいる、ということを主張していると思われます。ですがアンチークリマクスは、遠藤周作の「弱いクリスチャンと強いクリスチャン」という俗耳に入りやすい二元論に否を唱えているように見受けられます。それがアンチークリマクスだろうと、キルケゴールだろうと、あるいは歴史上有名なキリスト者であるアウグスティヌスやアッシジのフランチェスコ、ルター、マザー・テレサその他どんな「偉大なキリスト者」であれ、誰も殉教者になることができるほど「強い」クリスチャンは一人もいないのです。肉に過ぎない被造物に優劣をつけることは「どんぐりの背比べ」です。人は創造主の前に公平です。だから各々、神の前にただ一人立つべきです。『沈黙』における「俺は生まれつき弱か。心の弱か者には、殉教さえできぬ。」[15]という転んでしまった登場人物の悲痛な叫びに対し、アンチークリマクスは言うことでしょう。「君は正しい。そのような謙虚な告白こそまさに、人が真のクリスチャンとなるための条件なのだ」と。
[14] 『キリスト教の修練』345頁/ SKS 12, 221/ PC, 227.
[15] 遠藤『沈黙』208頁
2)キリストの恵みの必要を知り、恵みに逃れ行くこと
「労苦する者、重荷を負う者はすべて、わたしのもとに来たれ。わたしはきみたちをやすませてあげよう」[16]。ご存知、マタイ11:28です。アンチークリマクス『キリスト教の修練』冒頭部分は、ひたすらこのみ言葉の講解に費やされています。「すべての人よ、来たれ。きみも、そしてきみも、そしてまたきみも。逃げていった人々のなかでいちばん孤独なきみも」[17]。さながらビリー・グラハムの伝道集会のようです。
[16] 『キリスト教の修練』17頁/ SKS 12, 21/ PC, 11.
[17] 『キリスト教の修練』26頁/ SKS 12, 27/ PC, 16.
また墓のあいだに住処を定められ、人間社会にとっては死んだ者と見なされながら、惜しまれも、悲しまれもしない――葬ってはもらえないが、死人同然である、つまり死にも生にも属していない人たちよ、きみたちもまた来たれ。ああ、人間社会からは無慈悲にも締め出され、しかもまだ墓からはあわれみをもって迎え入れられない人たちよ、きみたちもまた来たれ。ここには休みがある。そしてここには生命がある[18]。
[18] 『キリスト教の修練』28-29頁/ SKS 12, 29/ PC, 18.
殉教のキリスト教が提示されることで、恵みのありがたさが身に染みて分かります。ゆえに聖書の厳命(殉教者となること)はありのまま語られるべきです。そのとき人は初めて、恵みを真に味わうことができ、恵みに逃れ行くことができるからです。そして恵みに後押しされて、再び力を得て、聖書の高い理想性に向かって邁進することができるのです。
キリスト(模範)と同時代になることによって、あなたが最高の瞬間と呼ぶときでさえ、あなたは自分が全くそのような存在ではないことを単純に発見する。[…]その結果、あなたは恵みへの信仰に逃がれることを効果的に学ぶこととなる。模範は、あなたに模範そのものとなることを要求する。残念なことに、あなたは恐ろしいほど似ていないと感じる。このように、模範は同時に、あなたを最も厳しく裁く無限の者であり、また、あなたをあわれむ者でもある[19]。
[19] David D. Possen ‘The Works of Anti-Climacus’ in International Kierkegaard Commentary 20: Practice in Christianity. ed. by Robert L. Perkins, Macon, Georgia: Mercer University Press 2004, 169, originally from SKS 21, 12-3, NB6:3/ JP, I 692; cf. JP, II 1909/ Pap. X4 A491, n.d., 1852.
キルケゴールは弁証法という言葉を好んで使いますが、キリストは正に弁証法的な存在です。最も慈愛に満ちた贖い主であり、最も厳しい要求を課す模範でもあります。(私はここで、オリンピック選手を育て上げる、愛情と厳しさを併せ持つコーチを思い浮かべます)私たちはその両方が必要です。何のいさおしもなく、ただあわれみによる救い。地上のどんな要求よりも高い、殉教者となることの招き。この両方が聖書の提示するキリストです。
[キルケゴールの墓]
下半分にセーレン・キルケゴールの名が記され、生年月日、没年月日、キルケゴールがお気に入りだったブローアソンの以下の詩が刻まれている。
「しばしの時が逝けば
そのときわたしは勝利していよう、
そのとき、なべての戦いは
つとに熄(や)んで、
わたしは憩うこととなる
バラの間に。
そしていついつまでも
わがイエスに語る」[20]
[20] 橋本淳『キェルケゴール 憂愁と愛』人文書院、1985年、228-9頁
適用
患難前携挙説によれば、キリストが空中再臨されるとき、生きているクリスチャンは生きたまま天へ携え上げられるとのことですが、そうでない限り、人はみないつか死にます。少なくともこの原稿を書いている2023年2月23日現在に至るまで、エノクと預言者エリヤを除いて、歴史上の信仰者はみな一度死を体験しています。
2011年、私の師匠である母教会の渡辺正晴牧師が召されました。ガン発覚から僅か3か月。あっという間の出来事でした。不思議なことに、現在に至るまで、渡辺牧師はときおり私の夢に現れ、夢の中ではお元気で、病気や死の兆候もありません。聖書では神は夢を通して語ります。現代の精神分析学では夢は無意識の顕在化とされています。いずれの立場を取るにせよ、結論は同じです。神が夢を通して語りかけておられるのなら、よみがえりでありいのちであるキリストを信じる者は死んでも生きることを示してくださっているのでしょう(ヨハネ11:25)。無意識の顕在化であれば、私の心の奥底で「死は終わりではない」と信じているのでしょう。
ガンとなって心身共に弱っていく中で、渡辺牧師は「こうしていればよかった、ああしていればよかった、という後悔がない」と証しされていました。渡辺牧師は、後悔や絶望と共に死ぬのでなく「信仰の人として死んだ」(へブル11:13)のです。メタリカが「My lifestyle determines my death style」[21](俺の生き方が俺の死に方を決定づける)と歌ったように、私たちは生きてきたように死んで行きます。殉教者とは、キリストのために生きる日々の生き方で、いつか来るキリストのための死に方を日々彫刻している人のことなのかもしれません。
[21] “Metallica lyrics – Frantic.” https://www.azlyrics.com/lyrics/metallica/frantic.html (2023年2月23日アクセス)
おわりに
…愛とは相手を変化させようとすることではなくて、自分自身が変わることだ。[22]
―ヨハネス・クリマクス(キルケゴール創作の仮名著者)『哲学的断片』
キリストは、神の御位を捨て、人となりました。私たち罪人を造り変えようとする前に、まず神であるご自分が人となり、「インマヌエル」(神われらと共に)を行動でお示しになりました。ここに愛があります。
上記のキルケゴールの言葉は、キリストの姿を端的に表し、またキルケゴールの著作活動を端的に表していると言えます。「[キルケゴールの]メッセージの核には、人に人として出会うキリストの自己謙卑についての大胆な断言がある。しもべの姿をとった神が、キルケゴール思想の中心に存在する」[23] 。
キリストは救い主にして模範です。キリストを愛するとは、救い主キリストだけでなく、模範であるキリストをも愛することです。キリストの丸ごとを愛することです。
私は当初妻に対して、好きなところもあるけれど、そうでないところもありました。しかしそれは本当の意味で愛するということではないと気付きました。妻の丸ごとを愛するのが、本当の意味で愛することだ、と。
罪人、取税人、サマリヤ人、悪霊に憑りつかれた人と、ご自分とは似ても似つかない人々に対し、ご自分を変えて彼らと同じ目線となり、全ての人のしもべとなったイエス様。イエス様を愛するあまり、パウロもユダヤ人、律法を持たない人、弱い人に対し、自分を変えて彼らと同じ目線となり、すべての人の奴隷となりました。それは「何とかして、何人かでも救うためです」(Iコリ9:22)。 あなたも救い主キリストを愛し、模範であるキリストを愛しませんか。キリストの丸ごとを愛しませんか。そうするなら、聖霊の助けをいただいて、キリストのごとく、相手を変えよう(回心させよう)とする前に自分自身が変わり、私、仏教、神道、無宗教、見えざる禁制の高札という、日本宣教を阻む障壁を克服することができるのではないでしょうか。キリストを愛すれば愛するほど、キリストに似れば似るほど、愛する日本人の魂をキリストに勝ち取ることができるでしょう。
[22] 世界の名著40「キルケゴール」『哲学的断片』中央公論社、90頁/ SKS 4, 239/ PF, 33.
[23] David R. Law, Kierkegaard’s Kenotic Christology. Oxford: Oxford University Press 2013, 1.
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