2021年4月~2022年3月 各記事毎月1回掲載(全12回)
①「聖書の息遣い」(信仰エッセイ) 北野耕一師
②「日本語になった聖書の言葉」 堀川寛師
③「聖霊の炎を掲げて」Season1 鈴木正和師
④「神学の教養」 長澤牧人師
★「ペンテコステ特集2021」 三宅規之師
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「日本語になった聖書の言葉」
「日本語になった聖書の言葉」④
聖書の言葉と同様、賛美歌も日本の文化に強い影響を与えたと言われています。特に、明治から大正時代に生まれたいわゆる「唱歌」は、賛美歌があったからこそ生まれた音楽だったとこの分野のオーソリティである安田寛氏は述べています。中でも最も有名なのは「シャボン玉飛んだ」だろうと思います。 -
「聖書の息遣い」(信仰エッセイ)
信仰エッセイ「聖書の息遣い」⑤
昔も今も時の刻みには変わりがない筈ですが、物心がつき始めた頃を思い返すと、当時は、時間がゆっくり流れていたように感じます。はじめて腕時計を手首に巻いた時、急に大人になったような気分になったのを忘れることができません。時報に合わせて竜頭を回し、時間の調整をするのも楽しみの一つでした。 -
「神学の教養」
神学の教養(4)
主観的に言えば、ある存在に恐れと敬意を感じるに比例して、その存在は聖です。身近さ、親しみやすさ、お手軽さを感じるに比例して、その存在は俗です。軽蔑、嫌気、卑賎を感じるに比例して、その存在は汚れています。 -
「聖霊の炎を掲げて」Season1
聖霊の炎を掲げて④
戦前の日本アッセンブリー教団の前身である日本聖書教会に所属した男性教職の中での伊藤智留吉(横浜教会)、小川裕(京都北野教会)、丸山栄(名古屋教会)、坂本亀蔵(神召教会)の4名が戦死します。このコラムでは丸山栄と琴夫人について取りあげます。 -
「日本語になった聖書の言葉」
「日本語になった聖書の言葉」④
これまでこのコラムではおそらく明治時代に日本人によく知られるようになった聖書の言葉を取り上げてきましたが、今日は少し趣向を変えて、最近よく耳にするようになった言葉を取り上げたいと思います。それは「神様は乗り越えられない試練は与えない」という言葉です。 -
「聖書の息遣い」(信仰エッセイ)
信仰エッセイ「聖書の息遣い」④
ちょっと変わった引き算をしてみましょう。「私から肉体をマイナスすると何が残るか」という計算です。幾つかの回答を想定することが出来ます。例えば、「何も残らない」とバッサリ言い切ってしまう人や、「何かが残るかも知れない」と答えに自信を持てない人、「人間の最も本質的なものが残るかも」と少々哲学的な応答をする人、といった具合に、聖書の真理に触れたことの無い人びとにとって、的確な回答にたどり着くのは中々難しいようです。 -
「神学の教養」
神学の教養(3)
「あなたたちはわたしのものとなり、聖なる者となりなさい。主なるわたしは聖なる者だからである。わたしはあなたたちをわたしのものとするため諸国の民から区別したのである(レビ記20章26節 以下新共同訳)」。 -
ペンテコステ特集
ペンテコステ特集2021③
過去2回に渡って、20世紀初頭に始まったペンテコステ・カリスマ運動が、100年以上経った今も何故成長し続けているかという理由と、そしてペンテコステ教会の人たちの聖書の読み方について考えてきました。最後となった今回は、このペンテコステ・カリスマ運動の使命についてみていきましょう。 -
「聖霊の炎を掲げて」Season1
聖霊の炎を掲げて③
102歳の長寿を全うし半世紀に及び日本アッセンブリー教団と中央聖書神学校を導いた弓山喜代馬先生の足跡はとても大きいものです。・・・・・・しかし弓山先生が生前に語られた断片的な証言にも齟齬があり、未だに多くのミッシング・ピースが残されたままです。そのため弓山先生の前半生を正確に描き出すことは難しくこの小文は一つの試みにしか過ぎません。 -
「日本語になった聖書の言葉」
「日本語になった聖書の言葉」③
国際NGO「オックスファム・インターナショナル」は、「働かない者には食べる資格はない」という意味で、怠けている人たちを戒める聖書発祥の言葉として使われます。確かに、新約聖書の『テサロニケの信徒への手紙二』3章10節にそのような表現の言葉がありますが、実際の聖書には以下のように記されています。古い翻訳から並べてみましょう。