なかなかキリスト教が根付かないこの国にあって、クリスマスと結婚式、そしてわずかにいくつかの聖書の言葉は文化に溶け込んでいます。このコラムでは、そのような言葉を紹介することで、日本人とキリスト教との関わりを解き明かし、願わくは唯一無二の福音が一人でも多くの人たちに伝わるためのヒントになれば、と願っています。
「目には目を歯には歯を」という言葉は、「やられたらやり返せ」、つまり復讐を正当化する言葉として使われます。もちろん聖書の言葉(旧約聖書の法律)ですが、実は他にも似たような法律を見出すことができます。一つは紀元前18世紀頃の「ハンムラビ法典」です。これは、古代バビロンの最初の王であったハンムラビによるもので、その中に「受けた害以上の復讐をしてはならない」という決まりがあるそうです。また、紀元前5世紀頃の古代ローマの法律にも、「他人に対して重度な怪我を負わせ、被害者と和解していない場合は、加害者に対する同等の復讐が許される」という一文があります。この決まりもやはり報復の限度を定めたものです。では件の旧約聖書の決まりはどうなっているのでしょう。原文を見てみましょう。
「もし、その他の損傷があるならば、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。」
出エジプト記21:23-25(ほかに,レビ記24:19-20・申命記19:21など)
かなり細かく決められていますが、やはり旧約聖書でも、報復あるいは過料の限界を定めていることは明らかです。ひどい目にあわされたらそれ以上の思いを相手にさせてやりたいと思うのが人間です。それは古代バビロンでも、ローマでも、そしてユダヤ社会でも同じであり、報復の連鎖が社会の秩序を壊してしまう危険を為政者たちは知っていたのでこのような法律ができたのでしょう。
彼は報復してはならないと言われただけではありません。“やられたもっとやらせなさい!”と命じられたのです。いや、「左の頬をも向けなさい」という言い方は、“もっとやるように仕向けなさい”、という意味にもとれます。「下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」、「一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい」という教えは耳を疑いたくなります。そんなことをしたら悪い奴らはますます付け上がり、一文無しになるまで奪われるか、一生奴隷のようにこき使われることになってしまうのではないかと心配になります。なぜキリストはこのように命じられたのでしょうか。その答えはこの箇所の少し先にあります。
キリストが「右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と言われたのは、報復の連鎖を止めるためではありません。そうすることでわたしたちが天の父のような「完全な者」になるためだ、というのです。キリストがこの世の秩序の維持に無関心であったわけではないでしょうが、彼には遥かに重要な関心事があったのです。それは天の父、すなわち神の評価です。天の父はどのようなひどい目にあっても復讐せず、そればかりか相手の気のすむまでやらせるお方だ、というのです。本当でしょうか?
本当です。天の父は、父に背を向け、悪事の限りを尽くしている人間を救うために、独り子をこの世に送られました。人間はこの方が特別であることを知りながら、嘲り、鞭打ち、最後は十字架にかけて殺してしまったのです。キリストはどのような目にあわされても抵抗せず、むしろ「左の頬」を向け続けられたのです。しかしその結果はどうなったでしょう。キリストの死は無駄死にだったのでしょうか。そうではありません。彼の死によって、全人類が罪から救われる道が開かれました。これこそ神の業です。天の父は完全であられます。
私たちも理不尽な目にあったり、ひどい目にあうことがあります。そんな時に思い浮かべなければならないのは相手の顔ではありません。私たちのために十字架上で祈られるイエス・キリストの顔です。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」という祈りは、私たちのためにささげられた、いやささげ続けられている祈りです。私たちのためにすべてを差し出された方を思う時、復讐の炎は静かに消え去るはずです。
📝 記事の感想等は、下方のコメント欄をご利用ください
執筆者紹介
堀川 寛
三滝グリーンチャペル牧師
中央聖書神学校 学監
広島県スクールカウンセラー
臨床心理士
公認心理師
不登校児のためのフリースクール主催(1997~2000年)
ひきこもり状態にある方々の支援(2008年~)
パソコン聖書ソフト「J-ばいぶる」の開発
妻と息子二人と犬一匹(チワワ)
趣味:ゴルフ・スキー・チェロ・落語鑑賞など
感想・コメントはこちらに♪