「あなたたちはわたしのものとなり、聖なる者となりなさい。
主なるわたしは聖なる者だからである。
わたしはあなたたちをわたしのものとするため
諸国の民から区別したのである
(レビ記20章26節 以下新共同訳)」。
第三回
神が無限であるとは
どういう意味か?
-応用編 ①-
長澤牧人 熊本聖書教会牧師
イスラエルの主は聖なる神です。したがって、イスラエルは聖なる民にならないといけません。
そのために与えられたのが律法です。
神はイスラエルが自分たちを諸国の民から区別するために律法を与えました。さらにいうと、自分たちを諸国の民から分離するためです。 ビジネス用語で言うと「差別化」です。
レビ記によれば、律法の第一の機能は区別です。
では律法によって何を区別するのか?
レビ記は言います、「あなたたちのなすべきことは、聖と俗、清いものと汚れたものを区別すること(10章10節)」。
4つのカテゴリーが登場しました。つまり「聖」、「俗」、「清い」、「汚れ」です。
カテゴリーを整理しましょう。
- 聖であるに比例して俗ではありません。
- 俗であるけど清くなることはできますし、俗でありながら汚れることもできます。
- 汚れの欠如に比例して清くなります。清い俗も可能です。
- 汚れた俗はありえるけど、汚れた聖性はありません。
つまり、こういうことです。
聖性とは俗の欠如であり、清さとは汚れの欠如です。欠如の程度に比例します。聖性と汚れは完全に異質です。
レビ記はこう命じているわけです。「イスラエルよ、俗な民ではなく、聖なる民になれ。汚れた民ではなく、清い民になれ。そうやって自分を差別化しなさい」。
ということは、世には俗なる民があり、清いけど俗な民もあり、汚れた俗な民もいるわけです。イスラエルは聖なる清い民になれと。
レビ記によれば、イスラエルの神は聖なる神なので、俗なる民、汚れた民とは相容れません。
俗なる民、汚れた民は聖なる神に近づくことができず、近づけば死を招きます。
そこで
第一の問題は、「神に近づける聖なる清い民はどこにいるのか?」、「そもそも人間は聖なる清い民になれるのか?」ということです。
第二の問題は、「律法が与えられていない民はどうなるのか?」です。
ユダヤ人は、
第一の問題については、「神はイスラエルに律法を与えられた。聖なる民はイスラエルだ。神は恵み深く憐れみ深いので完全主義は求めない。イスラエルは律法の行いによってではなく、契約によって神に選ばれたので、神の民らしく律法を守って聖性の理想に一歩一歩努力すればいい」という答えを出しました。
第二の問題については、「律法を持たないから異邦人は汚れている。聖なる民に加わりたければ、割礼を受け律法を順守して自らを差別化すればいい」と考えました。
他方でイスラエルは神の普遍性も信じ、「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る(創世記12章3節)」というアブラハムの伝承も保持しました。
ところが現実はというと、イスラエルの聖なる神は律法を守って自らを清める民の神なので、一方で聖なる神とイスラエル民族がいて、他方で俗なる民、汚れた民がいるわけです。しかも、人類のほとんどは俗なる民、汚れた民なので、聖なる神は圧倒的少数派の神であり、多数派の異邦人と敵対関係にある構図になります。
神が聖なるゆえに俗と汚れを排除し、結果として人類の普遍的な神になれずにいる状態です。聖性は俗と汚れの反対物として対立したままなのか?俗をも包み込み、汚れを汚れたままで受け入れつつ愛で浄化する聖性はありえるのか?
ここで思い出していただきたいのは 真の無限の論理です。
聖性に俗と汚れが対立したままなら聖性は有限です。
聖性が「無限の聖性」になるには俗と汚れを包み込み昇華しなければなりません。
でも論理の世界では単純明快なことでも、現実世界で出来事になるためには途方もないドラマが必要です。歴史的に成就するためには何が起きなれければならないのか?
イスラエルの聖なる神は、人類の誰も想像もしなかった方法で無限の聖性を啓示しました(続く)。
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執筆者紹介
長澤 牧人 ながさわ まきと
Makito Nagasawa
- 熊本聖書教会牧師
- 中央聖書神学校講師
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