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神学の教養(6)

第六回
神が無限であるとは
どういう意味か?

-応用編 ④-

長澤牧人 熊本聖書教会牧師

 人類の意識に神という観念がどう現れたかと言えば、まず有限性を超えたものとして現れました。人間が自分自身の有限性(病む、痛む、死ぬ、誤る、失敗する)を自覚すると、有限性を超えた領域に神を求めました。つまり神は「超有限」であると。有限者が超有限なものを意識するとき宗教的意識が始まります。


宗教は氏族・部族社会で、まず多神教として始まります。

 多神教は身近な事物に超有限を見ます。しかし神々の世界は神が複数いるわけで、神々同士で互いに制限し合います。しかし、バビロニア、エジプト、アッシリアで大帝国が建設されると、各帝国の最高神は神々の頂点に立ち、超有限のトップの地位につきました。そして大帝国の最高神さえ超える唯一の神がイスラエルに啓示されると、神は超有限さえ凌ぐ無限として意識され、有限の対極に立ちました。

「神は天におられ、あなたは地にいるからだ(伝道者の書 新改訳)」

 これが第二神殿時代のユダヤ人の意識です。 神は遠くなりました。
 すると神と人の無限の距離を埋めるかのように、中間的存在、つまり諸天使がユダヤ人の書物に登場します。アブラハムやモーセに親しく語った神は天上の霞の奥に消え、イスラエルの守護天使ガブリエルが神の啓示を携えてダニエルに届けるようになりました。

神は高きにいます。これぞ神です。

 しかし神が高みに昇れば昇るほど、人間の意識の中で苦しみや弱さは神と無縁なものになりました。人間の意識は、神と無縁なものには人生の意味を見出させなくなります。

 しかし十字架を仰ぐとき、苦しむ人は自分とメシアを重ね合わせることができます。苦しみはなくならないにしても、苦しみの意味が変わる、あるいは苦しみに意味が生まれるのです。 キリストにおいて啓示されたのは、人が神に近づき、神が人に近づくのは苦しみを通してだということです。

 へブル人への手紙の著者は、「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました(へブライ人への手紙5章7節 新共同訳)」と書きました。成功を祈願するため神社に行く人がいますが、人が真に神に出会うのは試練を通してです。

 人生の意味はまず高さにおいて顕れます。不断の克己、勝利、成功によってです。しかし深さにおいても顕れます。痛みや苦しみによってです。人間は無限(神)に近づくほど人生に意味を感じます。しかし意味の高さにばかり目を向けると、老いた時、病の時、死が迫った時、人生にもはや何も期待できなくなります。

 

 ナチスの強制収容所では、「人生にもはや何も期待できない」と感じた人から順番に息を引き取ったそうです。神から遠く感じる時というのは、人生の意味から遠く感じる時です。
 しかし神は人生の絶頂にだけ臨在するわけではありません。神は人生の底辺にも臨在します。つまり不条理に思える苦しみにも臨在します。

キリスト者の課題の1つは試練と苦しみにも意味を見出すことです。


 
「御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです(ヘブライ人への手紙2章18節 新共同訳)」。
 

無限の神が有限なナザレのイエスを通して啓示されました。

 最深部でも最高を示すのが、真に無限の神です。真の無限に外部はありません。悲惨や痛みは神の外に起きません。神の愛の内側にあります。メシアは「神に外部はない」ことを示しました。

どんな苦しみにも意味があります。キリストの力が宿るからです。これがパウロの体験でした。

「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです(コリントの信徒への手紙二12章9節~10節 新共同訳」。

弱さや苦しみは神性の対極ではありません。むしろ無限の神への通路です。

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執筆者紹介

長澤 牧人  ながさわ まきと
Makito Nagasawa

  • 熊本聖書教会牧師
  • 中央聖書神学校講師

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