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神学の教養(5)

第五回
神が無限であるとは
どういう意味か?

-応用編 ③-

長澤牧人 熊本聖書教会牧師

 パウロがアテネ人に向けた一言、「神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです(使徒の働き17章27節~28節 新改訳)」は、神と人間の関係を見事に表しています。神の中にいるからこそ人は神から離反できるわけだし、離反の代償も大きくなります。


人間は神の中に生きていながら、思いと行いにおいて神から疎外しています。

 神から疎外している人は自分自身のあるべき姿から疎外しています。自分のあるべき姿から疎外しているので、自分の中に自己破壊的な力が働きます。この自己破壊的な力が、パウロが言うところの単数形の罪です(ローマ人への手紙5章12節)。複数形の罪(嘘、暴力、盗み等)は、単数形の罪の具体的顕れです。とはいえ、神の中にいるので、完全には堕落していません。完全に堕落した人は自己の堕落さえ意識できません。すると人間以下の生物ということになるので不可能です。

罪は癌のようなもので、健康な人だけが癌になれます。

 死者は癌を患いません。身体が100%癌になったら癌自体が死んでしまうわけで、末期癌でさえ患者に残る健康のおかげで存在しています。健康な細胞の生命力で癌細胞は生きます。

同様に、罪の自己破壊力は、人間の健康な力に比例します。

 幼児が罪を犯さないのは罪を犯す能力がないからであり、高齢者の罪が小さいのは能力が衰えているからです。能力に比例して罪の潜在力も大きくなります。だから聖者こそ、潜在的には最大の罪人候補です。そういう意味では、最も大きな罪を犯す能力があったのは、最も大きな善を為す力があったイエス・キリストであり、共観福音書の「荒野の誘惑」のエピソードが示す通りです。秀でた人ほど罪の誘惑が大きく、優れた人ほど自分の能力が自己破壊力に転じないために徹底的な謙遜(自己否定)が求められます(ピリピ人への手紙2章6節~8節)。

 人間には大なり小なり自己破壊的な力が働いているので、人間関係や社会全体が大なり小なり罪に患っています。そこから世直しの機運が高まります。イエスさまの時代、つまり第二神殿時代には、救い主は曲がった世を正してくれる英雄だと思われていました。ローマ人をやっつけてくれる。取税人を裁いてくれる。売春婦に罰を与える。律法を守らない人、汚れた人を滅ぼしてくれる。それが当時のメシアのイメージでした。古い世を正して、新しい世界を作る人でした。

 歴史の中で革命が何度か起きました。革命は、「今の世は間違っている」という信念がないと起きません。世の中を良く変えようとする善意の人々がいるから革命が起きます。ところが革命が起こる度に人がいっぱい死にます。なぜ死ぬかというと、革命に反対する人が殺されるからです。世の中を良くしようと思う人たちにとって、革命に反対する人は悪い人です。フランス革命では200万人、ソ連でも200万人、カンボジアの革命では300万から400万人処刑されました。人間が社会全体を良く変えようとすると人がたくさん死にます。

 革命家は正しい世を作るためには必要だと思って処刑します。本当に悪い人は自分が得する範囲でしか人は殺しません。でも世の中を良くしようと思っている人は、「自分のためじゃない、社会全体のためだ」と思っているから何万人も平気で殺せます。悪意から生まれる罪より、善意から生まれる罪の方が大きいのです。

 実際、イエスさまに一番反発したのは、何が正しくて、何が悪いことか知っていると思っていた人たちです。当時尊敬されていた地位にいた人たち、世の中を良くしたいと思っていた人たちが真っ先に反発しました。人々はメシアに期待します。でも本当のメシアが来ても救い主だとは気づかないということです。

神は革命によって人類を変えるのではなく、贖いによって変えようとしました。

 メシアは人々の罪に抵抗せず、進んで罪の犠牲者になりました。十字架は、神がキリストに宿る聖霊を通して人間の罪の破壊的結果を我が身に負ったという事を示しています。罪が生み出す痛みと傷と死をメシアが味わい尽くすことによって、罪と悲劇と苦しみを我が身に引き受ける神の愛の聖性が啓示されました。

最初の弟子たちは、イエスさまの姿にイザヤ書の「苦難の僕」を見ました。

 「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ(イザヤ書53章4節~5節 口語訳)」。

疎外を克服するのは征服ではありません。

 疎外を克服するのは愛です。愛とは他者の中に自分自身を見ることです(マタイによる福音書22章39節)。神の御子は罪人の中に自分自身を見て下さいました。そして同じ痛みの場所に立ちました。おかげで、苦難の僕(メシア)の中に人間は自分自身を見ます。革命は恐怖によって人を従順にしますが、神の御子の愛には人は自主的に従っていきます。(*1)

(*1)シカゴ大学のキプニス教授は被験者を2つに分けました(1976年)。昇給、ボーナス、休暇を与え、懲戒したり解雇する権限を持った被験者。肩書だけで権限は一切ない被験者。グループのリーダーになってもらいました。前者は威嚇、叱責、昇格によってメンバーを働かせ、部下を低く評価し、自分の手柄にしました。後者は励まし、助言、ビジョンでメンバーを鼓舞し、部下を高く評価しました。

 有限性の不安は罪の誘惑となり、人間は神から疎外しますが、無限者が有限者の自己破壊を我が身に引き受けたので、「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです(ローマ人への手紙8章39節 新共同訳)」という信仰が生まれました。無限は有限の外に立たず、有限性を帯びたメシアの苦しみを通して、有限を宿す真の無限になりました。

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執筆者紹介

長澤 牧人  ながさわ まきと
Makito Nagasawa

  • 熊本聖書教会牧師
  • 中央聖書神学校講師

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