第四回
神が無限であるとは
どういう意味か?
-応用編 ②-
長澤牧人 熊本聖書教会牧師
主観的に言えば、ある存在に恐れと敬意を感じるに比例して、その存在は聖です。身近さ、親しみやすさ、お手軽さを感じるに比例して、その存在は俗です。軽蔑、嫌気、卑賎を感じるに比例して、その存在は汚れています。
神を神として認知する条件は恐れと敬意です。
聖性は壁と距離を生みます。聖性とは恐れと敬意を感じさせる何かです。人は恐れを感じない相手を神とは認識しません。卓越した力と滅ぼす権威があるからこそ恐れを感じます。人は敬意を抱けない存在を神として崇めません。フレンドリーで親しみやすい存在とは仲良くしますが崇めません。神が聖であることを止めれば、神と人を分ける壁はなくなりますが、代償として、人は神を敬いません。父親、教師、社長、大統領、王、恐れと敬意を感じる存在には、人間は服従と崇拝を示します。神とは、私たちが恐れと敬意を感じる序列の頂点に立つお方です。
他方で人間は単に恐ろしく力のある存在を恐れはしますが敬いません。
恐竜や怪獣は恐ろしいですが、敬う気が起こりません。殺人鬼は恐ろしいから命令に服従するかもしれませんが、礼拝する気になりません。だから単に恐ろしいだけの存在から距離が生じたとしても、私たちは全然疎外感を感じません。逆に清々します。遠い距離があっても苦痛に感じません。逆にもっと離れたくなります。
聖なる神から分け隔てられ、神の聖性に属さないことに疎外感を感じる人がいるとすれば、その人は神の聖性を無意識に自分の善き潜在性として感じるからです。あるいは聖性を自分のあるべき理想として感じているからです。疎外とは、自分自身のあるべき関係から離れている痛みです。見ず知らずの他人が挨拶してくれなくても疎外感は感じません。友だちに無視されたら疎外感を感じます。友だちを自分の一部に感じているからです。見ず知らずの家に入れてもらえなくても疎外感は感じません。でも自分の家に入れてもらえなかったら疎外感を感じます。自分は家に属しているからです。健康で才能があり努力すれば充実した人生が送れるはずの人が、いじけて飲んだくれて仕事もせずにクスぶっていたら自己疎外を感じます。本当の自分、本来の自分から離れているからです。
神は人間から隔絶しているから聖なる神です
しかし、「神はご自分に似せて人を創造された(創世記1:27)」と言われるように、人間は本来神に属しています。神は聖なる神であるために人間と距離があり、同時に人間は不可分に神に属しています。人が神を求めるのは、神に属しながら、神から離れているからです。
神の戒めが聖なのは、人間性の崇高さを求めているからです。
神の戒めを聖なるものとして認めている人は、戒めが自分のあるべき姿を要求していると認めます。しかし、現実の自分が俗であり汚れているなら、神から離れているだけではなく、本来の自分のあるべき姿からも離れているわけで、神からの疎外は、自己疎外としても経験します。この状態を罪と呼びます。
ここから和解の願いが生じます。和解とは、本来あるべき関係に戻ることです。
つまり聖なる神との和解は、自分自身との和解でもあり、神から受け容れられたと感じる時は、自分自身を受け容れることができるのです。神の受容を受け容れた時には自己受容も実現するわけです。しかし、神を受け容れるためには、まず神が自分を受け容れているというメッセージを聞かなければなりません。
「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました(コリント第二5:18 新共同訳)」。
神から疎外していると感じる人は逆ギレして神に敵意を感じ、神から離れた状態に固執します。でも神はすでに私たちと和解しています。人間は神から疎外していると感じますが、神はキリストを通して人間との関係に疎外を感じていません。放蕩息子と父の話が表す真理はこれです。だからパウロは言います、「あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい(コリント第二5:20 新改訳)」。「神はキリストにおいてすでに私たちと和解している」、これを伝えるのが、神がパウロに授けた「和解のために奉仕する任務」です。
無限が無限であり、有限が有限であるためには、無限と有限は区別されなければなりません。
だから神は聖なる神として自己を啓示します。でも有限が無限から孤立するのは、有限にとって真の状態ではありません。疎外とは、本来は結び付いているはずの2つが孤立している状態です。区別されながら結び付くためには、有限が無限との違いを承認しつつ、自分が無限に受け容れられていることも承認しなければなりません。神を恐れ敬いつつ、自分を神の子と信じるわけです。こうして有限は無限と和解します。有限を含む無限が真の無限であり、無限の中で生きる有限が真の有限です。「区別されるが分離せず」です。
神の和解のメッセージは、まず人となって世に現れました。
この人を見る時、神がすでに私たちと和解していることがわかります。神からの疎外が、すでに神の側では終わっていることがわかります。神の和解のメッセージを受肉したお方は、言葉と行動で和解のメッセージを歴史的出来事にしました。
(続く)
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執筆者紹介
長澤 牧人 ながさわ まきと
Makito Nagasawa
- 熊本聖書教会牧師
- 中央聖書神学校講師
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