第七回
神が無限であるとは
どういう意味か?
-応用編⑤-
長澤牧人 熊本聖書教会牧師
私たちの意識の中では、神はあそこにいて、私たちはここにいます。ここにいる私が、あそこにいる神に祈る、語りかけるという風に意識に表象されます。神を意識するということは、神を対象化するということです。神を意識する私が主体であり、神は意識される客体です。
- 「私=主体」、「対象=客体」という構図は、日常生活の常識です。
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私が母に話しかける。私は主体であり、母は客体です。母が私を観察する。観察する母が主体であり、観察される私は客体です。私が息子を抱っこする。抱っこする私が主体であり、抱っこされる息子は客体です。
- 「私が主体で、相手が客体である」という常識は、じつは有限者同士の構図です。
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私が私自身を意識する時もそうです。有限者が別の有限者に意識を向ける時、意識を向けている側が主体になり、意識の対象は客体になります。
- しかし、有限者が無限者に意識を向ける場合は、「主体⇒客体」の構図が成り立たなくなります。
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真の無限は自らの内に有限者を含むことを思い出してください。別の言い方をすれば、有限者の中に無限が宿ります。つまり「有限⇔無限」の対立構図にならないわけです。「有限⇔無限」の場合の無限は、真の無限に成り切れていない形式的な無限です。真の無限は有限を宿し、有限に宿る無限です。
「自らの内に有限者を宿し、同時に有限者に宿る真の無限者」の別名が聖霊です。
パウロは言います。
「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです(ローマ人への手紙8章26節~27節 新改訳)」。- まずパウロは、
「私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのです(26節)」と言います。 - 自分の深い思いを言葉で表せない。しかし、私に宿る神の霊が、私の魂の奥底で「言いようもない深いうめきによって(26節)」祈って下さっている。パウロは自分の内側で聖霊が祈るうめきを感じているわけです。聖霊が私たちの心の奥底の願いを探り、神に代弁して下さっている。
- そして続けます。
「人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます(27節)」。 - 神は祈祷者の心を探り窮めることができると。なぜなら、神の霊が私たちに宿り、私たちの想い知っているからです。そして神は私たちに宿る神の霊の想いが何か良く知っておられます。ご自分の霊だからです。
- さらに続けます。
「なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです(27節)」。 - 御霊は神の霊だから、神の御心に従って神に祈ります。ということは、御霊の祈りの内容と父なる神の御心は同一です。つまり神とキリスト者の関係は、「神⇔人間」ではなく、「神⇔神の霊」という構図なのです。神が主体で人間が客体ではなく、人間が主体で神が客体でもありません。神とキリスト者の関係は「主体⇔客体」を超えています。
するとこうなります。
私たちに宿る聖霊が神に向かって祈っている。聖霊は神の霊ですから、神が神に向かって祈っているのです。これが真の祈りです。真の祈りがなされる時は、私たちの中の霊なる神が、父なる神に向かって祈っているのです。こういう祈りは必ず実現します。神が神に祈るからです。- だから聖霊に満たされると、「私(主体)⇔神(客体)」という垣根が取り払われます。
- 神との距離が消えます。神はもはや客体ではなく、私を満たす主体でもあります。神学的にはこう表現します。「神は主体になることなしに客体になることはない」。もちろん普段の私たちは神を対象化し、神(客体)に向けて語ります。しかし、聖霊において神に語る時、じつは霊なる神(主体)が父なる神(客体)に向かって語っています。つまり神は客体でありながら、同時に主体でもあるわけです。神は真に無限なお方ですから、たんなる客体にはなりません。ご自分も主体である場合にだけ、同時に客体になるのが真に無限なる神です
- 「照明」という教理も同じ事態を表しています。
- 「照明」という用語は、私たちが聖書の御言葉を悟る時に使われます。聖霊は御言葉に光を照らします。私たちは聖霊によらなければ、御言葉の語りかけを聞くことができません。神の言葉は一方的な客体にはなりません。神の霊が主体になって神の言葉(客体)の真意を照らして下さるから、私たちは悟ることができるわけです。ここでも、神は主体になることなしに客体になることはありません。
聖霊とは何でしょう?
聖霊とは、「人間(主体)⇔神(客体)」の構図を打ち破り、神に始まり、神で終わる閉じた円、つまり真の無限を実現するお方です。パウロの言葉を借りれば、「神がすべてにおいてすべてとなられるためである(コリントの信徒への手紙第一15章28節 新共同訳)」。
5世紀のアフリカの神学者アウグスチヌスは、「私たちが神を愛する時、神がご自身を愛しているのである」と言いました。聖霊なる神が私たちに宿るからこそ、私たちは父なる神を愛し、父なる神に祈り、父なる神の言葉を悟るわけです。私たちが神を愛し、神に祈り、御言葉を悟る時、じつは神がご自身を愛し、ご自身に祈り、ご自身の御言葉を照らしています。つまり私たちと神との関係は、神によってのみ可能になるわけです。これが恵みという概念の真意です。
- まずパウロは、
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執筆者紹介
長澤 牧人 ながさわ まきと
Makito Nagasawa
- 熊本聖書教会牧師
- 中央聖書神学校講師
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