第十回
一神教とキリスト
長澤牧人 熊本聖書教会牧師
初代教会のキリスト者がイエス・キリストを神の如く崇めたことは学者を悩ませました。ユダヤ人的感覚ではありえないことだったからです。初代教会の主流はユダヤ人でした。今回はなぜ初代教会がイエス・キリストを主(ヤーウェイ)として礼拝するようになったのか、そのへんの経緯をご説明したいと思います。
まず押さえておきたいのは、キリスト教の母体になったユダヤ教は徹底的に一神教だったという点です。一神教は「神はお一人しかいない」という信仰です。
当時も今もユダヤ人の信仰の1丁目1番地は「シェマー(聞け)」です。申命記6章4節は記します。「聞け(シェマー)、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である(新共同訳)」。西暦1世紀のユダヤ人男子は朝と夕にシェマーを唱えました。義務です。イエスさまも毎日唱えました。ペテロも唱えました。パウロも唱えました。
「神はただお一人である」。ここだけはユダヤ人は絶対に譲りません。なぜならユダヤ人は大きな歴史的代価を支払って一神教に到達したからです。ユダヤ人は最初から一神教だったわけではありません。多神教から徐々に一神教に移っていきました。とくにイスラエル王国は土地が肥沃だったので農業が栄えました。当然、人手が足りなくなります。だから外国の出稼ぎ労働者が流入しました。外国人労働者は偶像を携えてやって来ます。またイスラエル王国は外交上手だったので、周辺国と仲良くしました。すると隣国の多神教的宗教の影響を受けます。
荒野が多くて貧乏だったユダ王国に比べて、おかげでイスラエル王国はおおいに栄えました。勝ち組でした。しかし預言者が繰り返し警告しました。「主なる神だけを神にしないと裁きが降るよ!」。アモス書とホセア書に預言者の批判が記録されています。しかしイスラエル王国は無視しました。調子がいい時、成功している時、人は批判に耳を貸しません。紀元前722年、ついに預言されていた神の裁きが降りました。イスラエル王国はアッシリア帝国に完膚なきまで滅ぼされました。
イスラエル王国から多くの難民がユダ王国に逃げました。難民はアモスとホセアの警告を無視した悲劇をユダ王国の宮廷に訴えました。でもユダ王国のエリートも預言者の警告を無視しました。多神教的慣習を断つことはありませんでした。
そして歴史が動きます。紀元前597年、586年、582年、3回に及ぶバビロン捕囚を経てユダ王国は壊滅しました。ダビデ王が統一王国を樹立したのが紀元前10世紀です。4世紀にわたって、「神は主(ヤーウェイ)お一人である」という預言者の教えを無視しました。この悲劇から何を学んだのか?それは「多神教的態度が滅びを招いた」ということです。この反省からユダヤ的一神教が生まれました。
ユダヤ的一神教の本質は何でしょうか?ポイントは3つです。
①神は唯お一人である。他に「神々」がいたとしても、世界を治めているのはただ一人である。それが主なる神である。
②だから、この神だけに忠誠を誓わなければいけない。一神教とは真の神は一人という意味だけではありません。一人の神だけを自分の神にするということです。
③唯一の神だけを神としないならば国は亡びる。だからユダヤ的一神教は十戒の第一戒と同じです。
「あなたには、私をおいて他に神があってはならない(出エジプト記20章3節 新共同訳)」。
おかげでイエスさまの時代のユダヤ人は骨の髄まで完全に一神教でした。
「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である(新共同訳)」、シェマーを1日2回唱えました。こんなユダヤ人が神を二人にすることなどありえなかったのです。
こういう背景を踏まえるなら、ユダヤ人のイエスさまに対する怒りが理解できます。
『ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ(ヨハネによる福音書10章33節 新共同訳)」』。「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである(ヨハネによる福音書5章18節 新共同訳)」。
ユダヤ人はイエスさまを誤解していました。イエスさまも他のユダヤ人と同じように、徹底した一神教信仰でした。
イエスさま自身が言っています。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです(ヨハネによる福音書17章3節 新共同訳)」。
イエスさまの一神教信仰は使徒たちにも引き継がれました。
パウロは言います。「現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです(コリント人への手紙第一8章5節~6節 新共同訳)」。
ではユダヤ教の一神教信仰と初代教会の一神教信仰は同じでしょうか?同じですが、同じではありません。比べてみましょう。
ユダヤ教的一神教:
「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である(申命記6章4節 新共同訳)」。
初代教会的一神教:
「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです(ヨハネによる福音書17章3節 新共同訳)」。
「現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです(コリント人への手紙第一8章5節~6節 新共同訳)」。
違いにお気づきになったでしょうか?ユダヤ教的一神教が唯一の神を信じるだけなのに対して、初代教会的一神教は、唯一の神とイエス・キリストを信じる信仰でした。神がお一人なのは同じですが、イエス・キリストも信じる信仰でした。
ではイエス・キリストを信じる信仰とは何を意味するのでしょうか?神はお一人であり、父なる神だけです。父なる神以外に神はいません。ではイエス・キリストとはどういうお方なのでしょうか?初代教会はイエス・キリストの何を信じたのでしょうか? この続きは次回。
執筆者紹介
長澤 牧人 ながさわ まきと
Makito Nagasawa
- 熊本聖書教会牧師
- 中央聖書神学校講師
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