第十一回
キリストを通して神を知る
長澤牧人 熊本聖書教会牧師
神を直接見た人はいませんし、神を直接体験した人もいません。
神自身が言います。
「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである
(出エジプト記33章20節 新改訳)」。
- 神を直接見る者は死ぬのです。
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神は見れないからこそ、十戒の第二戒は、「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない」と命じます。見えないお方を見える存在であるかのように像にしてはいけないわけです。
- 神は常に何かを通して間接的に知られます。
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書物であったり、天使であったり、民族であったり、歴史的事件であったり、預言者であったり。神を私たちに知らせる物や人を専門用語で「啓示の媒体」と呼びます。そして各媒体によって神を知れる程度が違ってきます。ある媒体は神を部分的に啓示し、ある媒体はかなり啓示し、ある媒体は十分に啓示します。また媒体によって神の何を啓示するかが違ってきます。神の計画を啓示する媒体、神の命令を啓示する媒体、神の裁きを啓示する媒体などなど。どの媒体を通して神に出会うかが重要です。
ちなみに啓示の媒体は旬の時期があり、旬を過ぎると用途が変わります。啓示の媒体は特定の歴史的状況に合うように与えられるので、歴史的状況が変わると重要性が減るし、目的や機能も変ってしまいます。
西暦1世紀のユダヤ人は律法を通して神を知りました。律法が啓示の媒体でした。律法は神がご自分の意志をイスラエル民族に伝えるために与えたものですから、神公認の媒体です。聖なるものです。だからユダヤ人は律法を重んじました。
ところが律法を通して神に出会った1世紀のユダヤ人の中には問題を抱えてしまう人もいました。学問都市タルソで生まれ、エルサレムの律法学者ガマリエルの膝元で教育を受けたパウロです。パウロは律法に特に熱心なパリサイ派でした。
パウロは自身の律法体験を次のように記しています。
「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです(ローマの信徒への手紙7章7節~8節 以下新共同訳)」。
- ハイパーセンシティブ(過剰感受性)と呼ばれる心理状態です。
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「明日は早起きしなきゃいけない。早く寝よう」と思った途端に眠れなくなります。「寝なきゃ、寝なきゃ!」と焦るほど眠れないのは、睡眠を過剰に意識するからです。
有名な実験があります。やってみましょうか。
みなさん、ドラえもんを1分間頭に浮かべて下さい。次に目を閉じて、5分間ドラえもんが絶対に頭に浮かばないようにしてください。成功しましたか?ドラえもんが頭に浮かばないようにするためには、自分の意識を監視しなければなりません。監視するためには常にドラえもんが浮かんでこないか意識的にチェックしなければなりません。ドラえもんが浮かんでこないか意識的にチェックするためには、ドラえもんを意識しなければなりません。だから意識的に意識しないようにすると、逆に意識してしまうのです。
律法は「むさぼるな」と命じます。貪欲を意識させます。「むさぼってはいけない」と意識すればするほど、自分の貪欲心が頭から離れなくなります。
- むさぼる心を意識すればするほど、パウロは神の御前に罪深さを感じました。パウロは気づきました。
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「命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました(ローマの信徒への手紙7章10節)」。
- 何を通して、誰を通して神に出会うかが重要です。
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「律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです(ガラテヤの信徒への手紙2章16節)」。
律法を通して神を知ったパウロには、神は裁く神であり、怒る神でした。神が命じる律法を守れないからです。パウロは悟りました。
「律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです(ガラテヤの信徒への手紙2章16節)」。
- そこで出会ったのがイエス・キリストでした。
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パウロはイエス・キリストを通して神を再認識しました。同じ神なのにまったく違って見えました。パウロに「然り」だけを宣言する神でした。
「神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです(コリントの信徒への手紙第二1章20節)」。
だからパウロは言います。「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました(ガラテヤの信徒への手紙2章16節)」。
神を直接見ることはできません。媒体なしに神には出会えません。だから誰を通して神に出会い、何を通して神を知るかが大事です。神の見え方が変わるからです。神ご自身は変わりません。でも私たちの知り方によって、神の見え方が変わるのです。イエス・キリストを通して神を知る者だけに、神の真の姿が見えます。
初代教会が悟ったのは次のことです。
イエス・キリストを見た者は神を見たのだと。
神を見ることはできない。でもキリストを見た者は神を見たのと同然なんだと。
「今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」。フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ(ヨハネによる福音書14章9節)」。
- イエス・キリストは神に対して完全に透明な媒体です。
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私たちが誰かを見る時、目に映るのは特定の個人だけです。神は見えません。エゴや自我が付着しているので、その人は神に対して透明になれません。しかし神の御心だけを行うイエス・キリストはエゴや我欲がないので、キリストを見ると神が透けて見えるのです。
ある夫婦がスーパーに夕食の素材を買いに行きました。妻は刺身パックを取り上げましたが、夫が「新鮮じゃないから止めておけ」と言いました。別の刺身パックを取り上げたら、夫が「色が悪いから止めておけ」と言いました。ため息をついて夫の顔を見ると、夫はサングラスをかけていました。実話です。
人は霊的サングラスをかけて生まれます。神が愛なる神に見えない時はサングラスが悪いのです。イエス・キリストという透明度100の眼鏡をかけてこそ神の愛が見えます。
なぜ初代教会のユダヤ人がイエス・キリストを主として礼拝するようになったのか?
答えはここにあります。
ユダヤ人キリスト者は唯一神教徒でした。父なる神だけが神でした。神は唯一でした。加えて、イエス・キリストに出会った時、神が自分に対して何を為してくれたのか、何を語ってくれたのかを理解しました。なにより神がどういうお方なのかを知りました。キリストの御顔には神のハートが映っていたからです。キリストに出会った者だけが神を完全に知るのです。
イエス・キリストは唯一の神を完全に映す唯一の媒体として主であり神の御子なのです。
「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい(ヨハネによる福音書14章11節)」。
これがキリスト教的一神教です。唯一の神と、唯一の神を映せる唯一の主イエス・キリスト。
これがパウロの一神教です。
「わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです(コリントの信徒への手紙第一8章6節)」。
執筆者紹介
長澤 牧人 ながさわ まきと
Makito Nagasawa
- 熊本聖書教会牧師
- 中央聖書神学校講師
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