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宣教師としてのキルケゴール②

宣教師としてのキルケゴール②

〜日本宣教の障壁「私」をいかに克服するか〜

セーレン・オービュ・キルケゴール 

宣教師としてのキルケゴール

〜日本宣教の障壁「私」をいかに克服するか〜

 セーレン・オービュ・キルケゴール  

荻野 倫夫
ガリラヤ丸子町キリスト教会牧師
中央聖書神学校学生主任

…自分がどんなに強くあろうとも、それ以上に強い一人の敵がおり、それは自分自身である。自分自身の力では克服しえない一人の敵がおり、それは自分自身だということなのである。

— キルケゴール『二つの健徳的講話』(1843年)

はじめに

 前稿は、デンマーク人著述家キルケゴールについて、通説とは異なる「宣教師としてのキルケゴール」という命題を提示しました。キルケゴールによれば「クリスチャン即宣教師」なので、日本には100万人も(!)宣教師がいることになります。キルケゴール的宣教師は、必ずしも海外に行くわけではありません。しかし精神的な「遠出」をします。私たちが出会う隣人は、私自身とは違う価値観をもつ「異国の人」なのです。本稿では、その異国(隣人)の世界に福音を携えていくための、最初のそして恐らく最大の難関を扱います。

デイビッド・ルー『日本宣教を阻む5つの障壁』

ここでデイビッド・ルー『日本宣教を阻む5つの障壁』という書籍を紹介します。ルーは日本統治下の台湾生まれ、日本研究の大家です。アメリカの一般大学で日本学を講義し、著作Japan: A Documentary History (Sharpe, 1997)は、多くの大学で教材として用いられています。同時に彼はクリスチャンで、日本を愛し、日本宣教のための燃える情熱と共に『日本宣教を阻む5つの障壁』を執筆しました。つまりルーは「日本の歴史、文化、風土の専門的知識」と「日本宣教への情熱」を併せ持つ稀有な存在です。それゆえキルケゴールに日本宣教の難問を突き付けるにうってつけの存在です。

最初の障壁「私」

 ルーによれば、日本宣教を阻む最初の障壁は「私」です。「事実、伝道での一番の妨げは私たちが共通に持っている、『私はクリスチャンだから、この人たちよりも優れている』という密かな自負心です。宣教師であっても牧師であっても信者であっても変わりはありません」(ルー、8-9頁)。つまり日本宣教の最大の壁は、クリスチャンの「上から目線」だという訳です。「ではどこから始めたらよいのでしょうか。まず聞き耳を立てることです。相手の立場に立って物事を考えてみるのです」(ルー、11頁)。クリスチャンよ、本気で宣教したかったらしゃべるな、まず未信者に聴け、とルーは語ります。「彼らがあなたに仕えるのではなく、あなたが彼らに仕えるのです」(ルー、11頁)。「弟子たちの足を洗うというイエスの教えは、伝道をするときその対象になる人々のニーズを最初に考えることだと捉えてもよいでしょう」(ルー、13頁)。

ブラウン「ペトロの足を洗うイエス」1852-56年

「これに対処するのに私はパウロの次の言葉を思い出します。『私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました』(Iコリント9・19)」(ルー、15頁)。さあ、日本宣教最初の障壁「私」の克服について、キルケゴールだったら、どのように回答するでしょうか。

「私」克服の道①:キリストに倣う自己否定

「私」を克服するための、キルケゴールの第1の方法は、キリストに倣って自己を否定することです。パウロはピリピ2:5-8において、受肉のキリストの自己否定を描き、ピリピ教会のクリスチャンに、「キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい」と呼び掛けています。

キルケゴールの宣教は、受肉のイエスの自己否定に倣うものです。自らの宣教戦略を開陳した『わが著作活動の視点』において、彼は自己否定についてこのように語ります。

まことの自己否定とは何であるかをみずから悟ったもののみが私の謎を解くことができ、またそれこそ自己否定であることを知るであろう。…およそ人ごみや騒々しい集会で、あるいは公衆というお偉方から、またはたかが半時くらいの時間では断じて知るを得ない一つのことがらがある。すなわちキリスト教の自己否定とは何かという一事だ。この自己否定がわかるためには多くのおそれとおののき、静かな孤独と長い時の流れを必要とする。[1]

[1] 『わが著作活動の視点』白水社、14-15頁、SKS 16, 13/ PV, 25.

このようにキルケゴールは、受肉のキリストに倣って自己を否定し、また読者にもそうするよう招いています。ただし一朝一夕には実を結ばないことも釘を刺しています…。

「私」克服の道②:相手に傾聴し、相手を学ぶ

 「私」を克服するための、キルケゴールの第2の方法は、傾聴する者になることです。キルケゴールによれば、宣教師は「気持ちよく[相手]の言うことにしんみりと耳を傾けてくれる聞き手」[2]「そこに座を占めて一心に耳を傾ける聞き手」[3]にならねばなりません。先ほどキリスト教の自己否定を見ました。クリスチャンは自己を否定し、口を閉じ、相手に傾聴し、相手のことを学ぶのです。

[2] 『わが著作活動の視点』白水社、39-40頁、SKS 16, 27/ PV, 45.

[3] 『わが著作活動の視点』白水社、41頁、SKS 16, 28/ PV, 46. 

いったい、そればかりか教師とはほんとうは学ぶ者の謂である。教育とは教師たる君が生徒から教えられ、生徒が理解したことの中へはいり込んで、いったい何をどういうふうにして生徒が理解したかを(もしそういうことが以前は君にはわからなかったのであれば)身をもって学ぶところから始まる[4]

[4] 『わが著作活動の視点』白水社、42頁、SKS 16, 28/PV, 46.

しかし自己を否定し、相手から学ぶ、というへりくだりは理想としては美しいですが、現実に一体どうやって可能となるのでしょうか。

「私」克服の道③:認罪と悔い改め

 「私」を克服するための、キルケゴールの第3の方法は、深い認罪の意識と懺悔者としての自意識です。このような認罪の意識は、「受肉のキリスト」とキリストの受肉に倣う「宣教師」の決定的な違いです。イエス・キリストは「罪を知らない方」(IIコリ5:21)で、悔い改める必要はありません。しかし「キリストに倣う者」(Iコリ11:1)であることを自認するパウロは、自身を「罪人のかしら」(Iテモ1:15)と認識していました。キルケゴールはこう語ります。「私の生は悔い改めることによって最も正しく過ごしうる…」[5]。一時的なあるいは短期間の霊的状態ではなく、彼の生涯は行住坐臥悔い改めでした。そういう意味で、キルケゴールは母国の国教であるルター派の伝統に忠実と言えます。

[5] 『わが著作活動の視点』白水社、99頁、SKS 16, 61/PV, 82.

ヴィッテンベルク城教会の門に95か条の論題 マルティン・ルター

 ルターが『95カ条の提題』をヴィッテンベルクの教会の扉に掲げ、プロテスタントの狼煙が上がりましたが、その第一提題にはこうあります。「提題1 わたしたちの主であるイエス・キリストが、『悔い改めよ』と言われた時、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである」。ルター派—プロテスタントの伝統では、クリスチャンの全生涯は悔い改めです。ですからキルケゴールの個人的傾向というよりも、真のクリスチャンはみな認罪と懺悔者との自覚に生きるのです。認罪と懺悔者の意識が、かたくなな最強の敵「私」を弱らせ、克服可能なものとするのです。

適用

 「私」がいかに手強く、宣教の妨げとなるか、私の失敗談をお話しします。ある神学生の友人と話していた時のことです。彼が寒そうにしていたので、上着を貸しました。彼は「ありがとう」と嬉しそうに受け取り、自分の肩にかけました。その後彼が言うには、彼は牧師になるのを辞めて日曜日仕事をする、とのことです。私は「仮にも神学校に行っていた者が日曜礼拝も守らないなんて」とやんわり非難しました。彼は傷ついた顔をして「ありがとう」と私の上着を返してきました。

キルケゴールは似たような場面を描いています。

ここに一人の気の立っている男がいて、彼は実際は正しくないとしよう。…君が気持ちよく彼の言うことにしんみりと耳を傾けてくれる聞き手だと知って、彼が満足するようにならない限りは…君にそれができないようだったら君は彼を救い出すことなどできはしないであろう。…彼がほんとうにやけになり、神を神とも思わずキリスト者にあるまじきやり方で感情のおもむくままにふるまったとする。…ことによると君は自分の人格的な威圧を加えてむりやりに彼にその非を不精不精に告白することはあり得よう。ところがどうしたことぞ…君の態度によって、彼が自分の不幸な情熱にまたもやぞっこんほれ込むことに手を貸してやった[ことになる]。まあせいぜいお説教をするがいい![6]

[6] 『わが著作活動の視点』白水社、39-40頁、SKS 16, 27-8/PV, 45-6.

元神学生が日曜日に教会に行かずに働くことが間違いであるのは、彼が一番良く分かっていたと思います。彼は私を信頼し、本音を打ち明けてくれたのです。あるいは自分のことを受け止めてほしかったのかもしれません。ところが私は彼の話に耳を傾ける代わりに、彼に「お説教」をしてしまいました。私がもう少し忍耐深く耳を傾けていたら、彼の心は和らいでいたかもしれません。しかし私が非難することで、彼の心をより頑なにした(キルケゴールの言い方では「不幸な情熱にまたもやぞっこんほれ込むことに手を貸してやった」)のかもしれません。私は「私」の殻から抜け出せず、彼の世界に入っていって、いかなるときにも慰めであり希望であるイエスの福音を、「翻訳」して伝えるのに失敗してしまったのです。本稿執筆を機に改めて、私は恵みにより罪赦された者に過ぎず、教師はただ一人三位一体の神のみであることを心に刻んでいます(マタイ23:8-10)。

おわりに~地上最強の生物は誰か

地上最強の生物は誰でしょうか。

出典:漫画『グラップラー刃牙』より

範馬勇次郎(はんま ゆうじろう)?

出典:漫画『ワンパンマン』より

サイタマ?

出典:アニメ『鬼滅の刃』より

鬼舞辻無惨?

出典:漫画『呪術廻戦』より

五条 悟?


お手元に鏡をご用意ください。その鏡をのぞき込んでいただけますか。実は上述の誰よりもチート級に強いのがそこに映った方です。日本宣教の最強の壁は、日本の文化や宗教でも隣人のかたくなさでもなく、「私」なのです。「私」を克服できるかどうか(隣人との境を越境できるかどうか)が、宣教師になれるかどうかの境目です。言い換えれば「私」に打ち勝つとき、私たちは日本宣教最大の壁を克服したことになるのです。この難攻不落の要塞の陥落が可能でしょうか? キリスト教はこのように答えます。自分一人では不可能なことを、神と共にやりとげなさい、と。「人にはできないことが、神にはできるのです」(ルカ18:27)。

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コメント一覧 (2件)

  • 熊本聖書教会の錦戸と申します。
    とても共感しました。

    今で言う「居酒屋(酒場、一般大衆の集うところ)」に行き、伝道をしたイエス様の姿を記した聖書の箇所を思い出しました。
    クリスチャンである自分自身を清廉潔白と自認し(本当はそうで無いにも関わらず)、相手は俗世にまみれていると決めつけ、自らの正義を声高に主張する(声高ではなくとも、態度に無自覚レベルで現れる)。
    確かに仰る通り、このような場面は容易に想像ができます。

    和を以て尊しと為した、日本人としてのアイデンティティ(DNAレベルでの)を忘れることなく、「クリスチャン即宣教師」として相手の懐に入ることができるように祈って努めていこうと、また想いがひとつ確信に変わりました。

    先生の研究を当サイトで惜しみなく、且つわかりやすく発表して頂けることに感謝です。
    今後とも楽しみにしております。

    新型コロナウイルスも増えてきたようです。
    様々なお考えがあるかとは思いますが、どうぞご自愛ください。

  • 共に「私」と「隣人」の国境を越えて「宣教師」となりましょう!

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