「ろう者としての誇りを胸に、神の愛を伝える」
広島基督教会(三滝グリーンチャペル)
郡 美矢
周りの方からよく「あなたって表情が豊かだね〜」と言われることがあります。
実は、ろう者が会話のときに豊かな表情を見せるのには、明確な理由があります。それは、顔の表情そのものが手話という「言語の文法」を構成しているからです。手話は「目で見る言語」です。聞こえる人(聴者)から見ると、一見「感情をオーバーに表現している」ように思えるかもしれません。しかしあれは、単に気持ちを昂ぶらせているわけではなく、言葉の意味を正確に伝えるための不可欠な要素なのです。



手話は手だけで話しているわけではありません。これらは「非手指動作」と呼ばれ、眉の上げ下げ、目の見開き、口の形、首の振り方などが、音声言語でいう「てにをは」や「イントネーション」の役割を果たしています。同じ手話でも表情や顔の動かし方によって、問いかけや誘い、否定など意味が変わる場合もあります。聴者は、声の大きさや高さ、怒ったような声、楽しそうな声といった「声のトーン(音声情報)」で感情やニュアンスを伝えますが、ろう者はこれらをすべて視覚的な情報に変換して伝えています。
そのため、表情がない手話は、音声言語でいえば「ロボットのような一本調子の声」や「文面だけの機械音声」で話されているのと同じになってしまい、相手に意図や感情が伝わりにくくなります。
ろう者の、ろう者による、ろう者のための福音伝道

母教会の徳島神召キリスト教会は、地元のろう学校内で始められた伝道により多くのクリスチャン学生が生まれました。そのろう者の両親を持つ私も、クリスチャン家庭に生まれ育ちました。幼い頃の記憶にあるのは、両親が手話で語ってくれた聖書物語です。その分かりやすく愛情に満ちた語り口のおかげで、私は物心つく前から聖書に親しんでいました。
教育熱心な母の影響もあり、負けず嫌いで好奇心旺盛だった私の夢は、先生、コメディアン、パイロットと、いつも大きく広がっていました。周囲の「聞こえないから大変だと思うよ」とか「聞こえないから無理だよ」という声に対し、両親は「いつも神様だけに頼って祈ることが大切だよ」と励まし続けてくれました。部活動の柔道で県大会優勝を果たした時は、「聞こえなくても出来るやん」という強い自信が生まれました。

手に技術を持つ仕事にと歯科技工士になった私は、カナダのバンクーバーで最初の仕事をスタートさせました。祈りに応えてくださる神様に感謝する日々の中、日本の友人たちが何人か遊びに来てくれました。「わぁー、久しぶり。元気?」と再会するたびに感激し、手を握りあい、精一杯の笑顔であいさつをかわすのですが、別れ際には「天国でまた会おう!」と決まりセリフで帰っていきます。その時ふと、ある牧師の言葉を思い出しました。「皆さんは天国に友達がいますか」と。
そんな興奮の中で、妙に醒めた思いが自分の心の中に広がることに気づきました。海外での挑戦にワクワクしつつも、教会での奉仕を通じて神様の恵みを深く味わっていたからこそ、この宝を自分だけのもの(宝の持ち腐れ)にしてはいけない、日本にいる多くのろう者や友人たちに神様の大きな愛を分けてあげたい、と思うようになったのです。
振り返れば、クリスチャンホームで育った私は神様の恵みに慣れっこになっていました。遠く離れたカナダの地で、私は神様の前における自らの姿勢を問い直されました。
「宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう」(ローマ10:14)
語り上手な父に任せきりだった信仰から脱却し、自分で福音を伝える責任を強く思い知らされた瞬間でした。

カナダに3年、オーストラリアに1年滞在した後、私はアメリカの大学へ留学し、神学とろうクリスチャン教育を専攻して牧師の資格を取得しました。卒業後はシカゴの貧困地域(サウスサイド)にあるろう教会で、社会生活の自立支援や演劇の指導に携わりました。そこに暮らすろう者の多くは中途退学などで英語の読み書きが十分にできず、聖書を読むことができませんでした。しかし、彼らの第一言語である「手話」で教えると、彼らの目はきらきらと輝いて熱心に耳を、いや、目を傾けて食い入るように見ながら、聖書の言葉をかみしめていました。
ドラッグにおぼれ、家庭内暴力で傷つき、何の希望もなく人生のどん底にいた彼らが、藁にもすがる思いで必死にイエス様の愛に触れ、聖書の言葉によって涙を流しながら信仰告白をして変えられていく姿を目の当たりにしました。彼らの知識や理解に合わせた言葉、すなわち手話で福音を伝えることの有意義さと価値を私は心から実感し、ろう教育やろう者伝道にますます情熱を持つようになりました。

モーセが神様からの召命を拒もうとしたとき、神様はこう言われました。
「だれが人に口をつけたのか。だれが口をきけなくし、耳を聞こえなくし、あるいは、目を開いたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか」(出エジプト記4:11)

イエス様は、与えられた才能、天分を働かせる者はますます豊かになると教えておられます。私は、自分がろう者であることに誇りを持っています。神様が目的を持って私を造ってくださったと確信しているからです。ろう者として、伝道者として生きる召しを受け止められたことは、私にとって計り知れない大きな祝福です。
これからも、一人ひとりの知識や理解力に合わせた「伝わる言葉、手話」で、神様の豊かな福音を届け続けていきます。




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