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「日本語になった聖書の言葉」①


第1回

「人はパンだけに生きるにあらず」

堀川 寛 三滝グリーンチャペル牧師

 長い鎖国の後、再びこの国にキリスト教の宣教が始まって(キリスト教禁制の高札を撤去1873年)150年近く経とうとしています。残念ながらクリスチャン人口は増えてゆかないのですが、この国の文化として根付いたものもあります。クリスマスとキリスト教式?結婚式です。クリスマスとキリスト教式?結婚式です。お祭りや儀式が大好きな日本人に、この二つは受け入れられたようです。そして実は、日本人に受け入れられた、換言すれば「日本語になった」聖書の言葉もいくつかあるのです。「目から鱗」、「働かざるもの食うべからず」、「狭き門より入れ」、「求めよさらば与えられん」、「豚に真珠」、などなど、受け入れられ度?に違いはあるものの、おそらく20以上はあると思われます。多くの人たちは、これらの出自が聖書であることを知らずに使っています。また、それらのうちいくつかは、誤解されたり、本来の意味とは違う文脈で使われたりしています。このコラムでは、そのような言葉を取り上げ、正しい意味と使い方を紹介するとともに、あわよくば日本人に受け入れられる福音のかたちを見つけ出せれば、と願っています。

第一回目は「パンのみにて生きるにあらず」です。この言葉の意味をネットで調べてみると、「人は物質的な満足を得るだけではなく、精神的な支えがあることで、充実した生活を送ることができるというたとえ」(コトバンク)、と出てきます。

「パンだけじゃものたりないからジャムを塗れ」、「パンだけじゃなくご飯もおかずも食べないとね」という書き込みもありました。では元々何と書いてあったのでしょう。最初の公同訳聖書である、いわゆる「明治訳(元訳)」には、「イエス答へけるは人はパンのみにて生るものに非ず唯神の口より出る凡(すべて)の言(ことば)に因ると録されたり」(馬太傳福音書四章四節)とあります。マタイが「馬太」と表記されているのが面白いですね。この言葉のように、日本語になった聖書の言葉の多くはいわゆる「文語訳」のままなのです。これはつまり、文語訳の時代に聖書の言葉が人口に膾炙(かいしゃ:世の人々の評判になって知れ渡ること)したことを意味しています。西欧の文明を積極的に取り入れようとした時代、その土台であるキリスト教への関心が高まり、各地でミッションスクールが設立されたこともあって、一部の聖書の言葉は人々の興味を惹いたようで。

 話を元に戻しましょう。クリスチャンの方であれば、「パンのみにて生きるにあらず」という言葉は、イエス様が公生涯を始められる前に、荒れ野でサタンの誘惑を受けられた際に語られた言葉であることはご存じでしょう。現代語(新共同訳)には以下のように記されています。

さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。

そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。

「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」

イエスはお答えになった。

「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

 「誘惑する者(サタン?)」は、空腹の絶頂にあるイエス様に、その超自然的な力を濫用して石をパンに変えてみたらどうだ、と誘惑します。しかしイエス様は、旧約聖書・申命記の言葉(申命記8:3)を引用して、この誘惑を退けられるのです。イエス様がこの言葉を引用された真意についての説明は本コラムの目的と異なるので省きますが、少なくとも、誘惑への対処の見本としてこれ以上ないものです。

 ではなぜこの言葉がこの国に定着することになったのでしょう。これはあくまで私の推測ですが、明治の日本人にとって「人はパンだけで生きるのではない」、つまり人間にとっては食べ物以外にも大切なものがある、という教えは、とても珍しい、あるいは興味深い言葉として響いたのでしょう。米が主食の日本人には、「西欧人はパンが主食だと思っていたが、パン以外も食べるのか?」という疑問を生んだのかもしれません-おそらく一部のひねくれ者-。しかし問題は、この言葉が、本来一番大切な「唯神の口より出る凡の言に因ると録されたり」という後半部分がカットされた、あるいは残らなかったという事実です。イエス様が誘惑する者に対して、そしてやがてこのエピソードを知ることになる弟子たちに対して伝えたかったのは、むしろこちらの方であることは火を見るより明らかです。少々穿った見方をすると、この部分がカットされて現代にまで伝わっている事には、日本人の宗教性の強かさ(したたかさ)が現れているように思います。役に立ちそうな、あるいは興味のある部分は受け入れて、都合の悪いところや、核心部分は上手に取り除く。クリスマスや結婚式も「同じような目?」にあっていると言えます。この手法で聖書の教えは骨抜きにされてきたのかもしれません。

実は私たちも常にサタンの誘惑に遭っています。目の前に現れる魅力的な製品や豊かな生活に対して、サタンは「神に祈ったらどうだ?」と誘惑してきます。私たちは即座に「求めよさらば与えられん」という御言葉を思い出し、何のためらいもなく「神様~を与えて下さい」と祈ります。果たしてこれでイエス様の見本に従っていることになるでしょうか?少なくとも、「今、本当に必要なのだろうか?」と自問するぐらいのゆとりは欲しいものです。「神の口から出る一つ一つの言葉」を十分に食したら、魅力的に見えたあれこれが実につまらないものに見えてくるかもしれません。そして、その姿勢は、日本の人たちがカットしてしまったこの言葉の本当に大切な部分を、気づかせる間接的な証しとして働くことでしょう。

*いずれこの連載で取り上げます。

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執筆者紹介

堀川 寛 
三滝グリーンチャペル牧師
中央聖書神学校 学監

広島県スクールカウンセラー
臨床心理士
公認心理師
不登校児のためのフリースクール主催(1997~2000年)
ひきこもり状態にある方々の支援(2008年~)
パソコン聖書ソフト「J-ばいぶる」の開発

妻と息子二人と犬一匹(チワワ)
趣味:ゴルフ・スキー・チェロ・落語鑑賞など

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