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「神学の教養」
神学の教養(12)最終回
福音は2種類あります。1つはイエスさまが伝えた福音です。もう1つはイエスさまについての福音です。2つは福音は密接につながっていますが、それぞれの特徴があります。イエスさまが宣べ伝えた福音は「神の国の福音」です。 -
「神学の教養」
神学の教養(11)
神を直接見た人はいませんし、神を直接体験した人もいません。 神自身が言います。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである(出エジプト記33章20節 新改訳)」。 -
「神学の教養」
神学の教養(10)
初代教会のキリスト者がイエス・キリストを神の如く崇めたことは学者を悩ませました。ユダヤ人的感覚ではありえないことだったからです。初代教会の主流はユダヤ人でした。今回はなぜ初代教会がイエス・キリストを主(ヤーウェイ)として礼拝するようになったのか、そのへんの経緯をご説明したいと思います。 -
「神学の教養」
神学の教養(9)
クリスマスといえば、イエスさまのお誕生日です。イエスさまはいつごろ生まれたのでしょうか?ハッキリわかりませんが、おそらく紀元前6年から紀元前4年の間です。なぜこういう推測ができるかというと、マタイによる福音書2章1節によれば、「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき(新改訳 以下同様)」とあります。ヘロデ王が死んだのは紀元前4年です。つまりイエスさまの誕生は紀元前4年以後ではありえないことがわかります。 -
「神学の教養」
神学の教養(8)
「牧会カウンセリング」という用語があります。牧師が会話と傾聴によって信徒をケアすることです。牧会カウンセリングは「個人相談」ではありません。牧師は一個人として信徒の話を聴くわけではなく、一個人としてアドバイスするわけでもありません。牧師はキリストの身体である教会を代表して耳を傾け、教会が受け継いだ神の言葉に基づき助言します。 -
「神学の教養」
神学の教養(7)
私たちの意識の中では、神はあそこにいて、私たちはここにいます。ここにいる私が、あそこにいる神に祈る、語りかけるという風に意識に表象されます。神を意識するということは、神を対象化するということです。神を意識する私が主体であり、神は意識される客体です。 -
「神学の教養」
神学の教養(6)
人類の意識に神という観念がどう現れたかと言えば、まず有限性を超えたものとして現れました。人間が自分自身の有限性(病む、痛む、死ぬ、誤る、失敗する)を自覚すると、有限性を超えた領域に神を求めました。つまり神は「超有限」であると。有限者が超有限なものを意識するとき宗教的意識が始まります。 -
「神学の教養」
神学の教養(5)
パウロがアテネ人に向けた一言、「神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです(使徒の働き17章27節~28節 新改訳)」は、神と人間の関係を見事に表しています。神の中にいるからこそ人は神から離反できるわけだし、離反の代償も大きくなります。 -
「神学の教養」
神学の教養(4)
主観的に言えば、ある存在に恐れと敬意を感じるに比例して、その存在は聖です。身近さ、親しみやすさ、お手軽さを感じるに比例して、その存在は俗です。軽蔑、嫌気、卑賎を感じるに比例して、その存在は汚れています。 -
「神学の教養」
神学の教養(3)
「あなたたちはわたしのものとなり、聖なる者となりなさい。主なるわたしは聖なる者だからである。わたしはあなたたちをわたしのものとするため諸国の民から区別したのである(レビ記20章26節 以下新共同訳)」。
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