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神学の教養(1)

第一回
神が無限であるとは
どういうことか?

-雑学篇-

長澤牧人 熊本聖書教会牧師

神学の世界へようこそ!神学校に入学しますと、組織神学という授業を受けます。必修科目です。どの組織神学の教科書にも、「神は無限である」と記されています。この一言は、キリスト教の教えを整理するキーワードです。意味を知れば、良いことがいくつかあります。まず第一に聖書を読み解く助けになります。第二にいろんな教理を理解するコツがつかめます。第三に神がなぜ聖書を通して語り、イエス・キリストを遣わし、聖霊を注いでくださるのか理解できます。「神は無限である」という一言が表すのは、神さまの人間との関わり方なのです。第一回目は、神の無限性の教理にまつわる雑学から始めます。


「神は無限である」と聞けば、「なるほど、そうだ」と直感的に納得すると思います。しかし、西暦1250年以前の神学者は、神が無限であることを意識していませんでした。理由があります。

第一に、聖書は「神は無限である」と記していません。
 確かに、それっぽいことは書いています。例えば詩編139篇7節~8節、「どこに行けば あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし 陰府に身を横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます(新共同訳)」。詩編の作者は、神は私たちがどこにいても臨在してくださると言います。しかし、聖書は無限という用語を知らないのです。
第二に、中世の神学者が参考にした使徒教父や教会教父と呼ばれる古代教会の神学者も、「神は無限である」とは論じませんでした。
 神の無限性の教理を知らなかったようです。つまり1250年(13世紀中盤)以前の神学校の授業には、神の無限性の教理はまだ登場していなかったのです。
第三に、古代地中海社会の教養に絶大な影響力を誇ったギリシャ哲学では、無限よりも有限の方が価値が高かったのです。
 現代人なら「有限であるよりも無限の方がスゴイ」と考えますが、古代ギリシャ人は有限の方が素晴らしいと考えていました。なぜでしょうか?形あるものはすべて有限だからです。古代ギリシャ人は、形ある物の方が、形のない物よりも美しいと考えました。当然です。形のない美なんてありません。すべて完成したものは形ある物です。建築も、肉体美も、服飾も、料理も、ダイヤモンドも形あるものです。有るものを限るから形があるのです。
反対に形のない物はどうでしょうか? ①空気→タダです。 ②まとまりのない考え→不用。 ③迷い続ける意志→優柔不断。限ら無いから。人生は形にしてこそ意味があるのです。だから1250年以前の人たちは、「キリスト教の神は無限である」と聞いたら、神は優柔不断で、まとまりがないく、美しくないと思ったことでしょう。
第四の理由は、ギリシャの哲学者アリストテレスの影響です。
 中世初期のヨーロッパはアリストテレスの著作を知りませんでした。アリストテレス研究が盛んだったのは、むしろイスラム文明圏でした。アリストテレス研究の大家であるイスラム教徒アヴェロエスの注釈本が13世紀にヨーロッパに輸入されます。アリストテレスは無限という概念を数字を通して考えました。1+1+1+1+1+1+・・・。「ホラ、無限に足せるだろう」。数は無限に足せる、無限に割れる。可能性として他に無限に足せるもの、割れるものは何か?物です。キリスト教徒にとって、神を物質的に考えるのは不敬の極みでした。だから神学者は無限を神に当てはめませんでした。
ところが潮目が変わります。
 ドミニコ修道会のイギリス人神学者リチャード・フィッシェーカー(1200年~1248年)が初めて神の無限性を主張しました。フィッシェーカーは「無限」を「完全」という意味で使いました。つまり「神は無限である」=「神は完全である」。中世西欧の神学界の東西両横綱であるフランシスコ修道会のボナヴェントゥラとドミニコ修道会のトマス・アクィナスがフィッシェーカーに続きました。こうして神の無限性の教理は神学校の教科書に導入されました。

雑学はここまでにして、次回から神の無限性の意味をご一緒に探索しましょう。

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執筆者紹介

長澤 牧人  ながさわ まきと
Makito Nagasawa

  • 熊本聖書教会牧師
  • 中央聖書神学校講師

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