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ペンテコステ特集2021②

Series “Pentecost” – 2021 Vol.2

「聖霊の深みを読み解く」❷

三宅規之
めぐみ福音キリスト教会牧師
中央聖書神学校校長

 前回は20世紀初頭に始まったペンテコステ・カリスマ運動が、100年以上経った今も何故成長し続けているのかということを書かせていただきました。

 今回は私たちの信仰の基準でもある聖書の読み方について考えてみましょう。

1.聖書をいかに読むか
 ペンテコステ教会の人たちは、聖書をどのように読むのでしょうか。ペンテコステ信仰とは「聖書に書かれていることは今も起こると期待する信仰」です。私はこのように考えています。当然のことのように思えるかもしれませんが、実はそうでもないのです。

 私はある大学の神学部で学ぶ機会があったのですが、忘れられない思い出があります。入学直後に受講した「神学概論」の最初のクラスで、当時の助教授が「僕は天国はないと思っている」と言ったのです。とてもびっくりしました。思わずその夜、親に電話をかけて「天国ってあるよね?」と聞いたものです。それ以降の学びも、驚くことばかりで、聖書に書かれていることを必ずしも文字通り読まない人たちもいるということを、初めて目の当たりにした体験でした。(ちなみに中央聖書神学校の教師は皆天国を信じていますからご安心ください笑)。

 大学で神学を勉強するうちに、一口にキリスト教と言っても幅があり、同じキリスト教でも様々な立場、考えの信仰の方たちがいるということを知りました。今となっては神様が与えてくださった、とても大切な学びの機会だったと思っています。
2.ペンテコステ信仰の土台
 聖書の読み方、理解の仕方についての一つの例をご紹介しましょう。

 新約聖書、特に福音書や使徒の働きには、イエス様や弟子たちによる、多くの癒し、悪霊の追い出しや、奇跡などが記録されています。またパウロの手紙によっても、初代教会には預言や異言や、異言の解き明かしなど、顕著な聖霊の働きがあったことが明白です。しかし時代が経つにつれて、それらの現象が教会で見られなくなったのでしょうか。「最後の使徒の召天、あるいは新約聖書の完成によって、初代教会に起こっていた癒しや奇跡、預言や異言などの御霊のあらわれは必要なくなり、もう起こらない」という考え方があらわれました。これをセッセーショニズム(Cessationism)、あるいはカリスマタ終焉論などと呼ぶこともあります。この考えに立って聖書を読むと、私たちペンテコステとは違う信仰、考え、期待となるのは当然のことですね。

 この考えを支持するために、よく引用される聖書箇所があります。第1コリント13章8節の「預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます」から10節の「完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます」と続く聖句です。ここに書かれている「完全なもの」は、新約聖書の完成を表していると考え、よって預言や異言は起こらないと考えるのです。

 実は私の教会に他教会で洗礼を受けて転入会された方がいます。あるとき、その方にこの話をしたら、自分の聖書を持って来てこう言われました。「僕の聖書を見てください。第1コリント13章のところに書き込みをしてあります。前の教会の牧師先生にこの「完全なもの」に線を引いて『新約聖書の完成と書きなさい』と言われました。」彼の聖書にはそのように書き込みがしてありました。ですから今でもこのように強く教えておられる教会や牧師がいらっしゃるのです。

 ではここでパウロが書いた「完全なもの」(第1コリント13:10)とは何を指すのでしょうか。私たちは新約聖書の完成とは読むことはできません。「完全なものの現れ」とは、キリストの再臨を表しているととらえるのが自然ではないでしょうか。まだキリストは来られていません。であるなら、預言も異言も今も教会のなかでみられるはずです。聖書はおびただしいいやしの記述で満ちています。であるなら、それは今も起こるのです。また、聖書には悪霊追い出しの記事も多く書かれています。であるなら、それは今もあるのです。初代教会では預言が語られました。それは今も起こるでしょう。さらに、聖書には聖霊に満たされて異言を語る弟子たちの姿が書かれています。今も私たちも聖霊に満たされて異言を語るのです。

 ペンテコステ信仰の土台は、このように、「聖書に書かれていることは今も起こる」という信仰の再発見であり、この信仰に応じて働かれる聖霊の働きを体験する運動と言えるでしょう。私たちは、今も生きて働かれる主を信じ、大胆に求めることができるのです。
3.主権は神にある
 ただし、ここで一つ注意が必要です。最初に私は「聖書に書かれていることは今も起こると期待する」と書きました。あくまでも神様に期待するのであって、「聖書に書かれているから必ずいやされなければならない」、「奇跡が起こらなければならない」などと考えるのは、極端で危険です。なぜなら主権は神様にあるからです。私たちはいやしを信じて求めつつも、主権は神様にあると認めて、期待して求めていく、それがペンテコステの原点であり、私たちの信仰の土台ではないでしょうか。

 聖書に書かれていることは今も起こると信じて、神様に期待してまいりましょう。

「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」

ヘブル人への手紙13章8節

執筆者: 三宅 規之  みやけ のりゆき - Noriyuki Miyake

  • めぐみ福音キリスト教会牧師
  • 中央聖書神学校(CBC)校長

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