MENU

「日本語になった聖書の言葉」⑧


第8回

「砂上の楼閣」

堀川 寛 三滝グリーンチャペル牧師

 このシリーズも早いもので、今回で8回目となりました。今日取り上げる「日本語になった聖書の言葉」は、聖書に起源があることをほとんど知られていないと思われます。実は子どもの頃から聖書に親しんできた筆者自身も、この言葉の起源が聖書にあると知ったのは大人になってからのことでした。「楼閣」という言葉はなんとなく中国の宮廷を連想させ、中国の故事に由来した言葉だろう、と思っていたのです。どのような経緯でこの言葉は聖書由来であることを知ったのか覚えていませんが、実に見事な表現だなあ、と感心したことは確かです。読者の中にも意外に思われた方も多いかもしれませんが、試しにネットで「砂上の楼閣」を検索してみてください。「新約聖書に由来する」と解説したサイトがいくつも表示されるはずです。ただ残念なことに、「砂上の楼閣」という言葉は、「外見は立派だが、長く維持できないもののたとえ。また、実現不可能なことのたとえ。」(コトバンク)として使われていて、聖書の本来の意味からはずれてしまっています。

 では聖書の本来の意味はどうなのでしょうか。その箇所を読んでみましょう。もちろん、イエス様が語られた「家と土台のたとえ話」です。

「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。

(マタイ福音書7章24~29節/新共同訳)

 このたとえ話は、マタイ福音書5章から7章にまとめられている「山上の垂訓」の最後に置かれていて、山上の垂訓のまとめとも言える大切なお話です。とてもシンプルで分かりやすいお話ではありますが、意外と誤解されている箇所でもあります。このたとえ話は、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う」というフレーズが鍵となっています。「これらの言葉」とはもちろん「山上の垂訓」全体を指しています。「山上の垂訓」は、イエス様が旧約聖書の中心である律法の教えを「廃止するためではなく、完成するため」(5:17)に来られたことを教えるために語られた説教集です。全編、“あなたがたは律法ではこのように聞いているだろうが、私はそれよりももっと父なる神様の思いにかなうやり方を教えよう”、という導入で、本物の神の国のルールが語られます。そして最終的にこのたとえ話に行き着くのです。つまり、“私はあなたがたに新しい律法を授けたけれど、これを聞いて行うかどうかが肝だよ”ということを印象づけるためのお話なのです。
 
 このたとえ話では二通りの人(家)が描かれます。岩の上に家を建てた人と砂の上に立てた人です。紙芝居などでは、砂の上に建てるのは簡単で、岩の上に建てるのは大変だというような“余計な”説明がされています。これはイエス様の教えを行うことが楽ではないと感じて、逆に読み込んだ解釈です。建てるのが大変かどうかは、このたとえ話では重要なポイントではありません。重要なのは、「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲った」時、それぞれの家がどうなったか、ということです。岩を土台としていた家は、倒れなかったけれど、砂を土台としていた家は「倒れて、その倒れ方がひどかった」とあります。土台ごと流されてしまったからです。これは、“当たり前の事柄”あるいは”当然の結果”を描いているに過ぎません。つまり、砂の上に家を建てるような愚かなことをする人はいないように、「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない」愚かな人はいないはずだよね、という少し皮肉を込めた勧告なのです。

 もしもう少し読み込むとするならば-どこまでがイエス様の意図なのかは不明ですが-、「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲った」とは、突然襲ってくる嵐のような苦難を暗示していて、イエス様の言葉を行っているかどうかは、何事もない時には分からないけれど(建物からは土台は判断できない)、苦難の時に明らかになる、というようなお話として解釈することもできます。イエス様のたとえ話は、読む人が様々に適応できるような“余白”が残されています。大切なことは、自分のこととして受け取ることです。

 このたとえ話から生まれた「砂上の楼閣」というフレーズが、本来とは違う意味に捉えられていることは残念ですが、起源となったたとえ話を知っている私たちは、イエス様の言葉を聞いても行わなければ、自分自身が「砂上の楼閣」になっていることを肝に銘じなければなりません。

📝 記事の感想等は、下方のコメント欄をご利用ください

執筆者紹介

堀川 寛 
三滝グリーンチャペル牧師
中央聖書神学校 学監

広島県スクールカウンセラー
臨床心理士
公認心理師
不登校児のためのフリースクール主催(1997~2000年)
ひきこもり状態にある方々の支援(2008年~)
パソコン聖書ソフト「J-ばいぶる」の開発

妻と息子二人と犬一匹(チワワ)
趣味:ゴルフ・スキー・チェロ・落語鑑賞など

この記事が気に入ったら
いいねしてね!

お友だちへのシェアにご利用ください!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

感想・コメントはこちらに♪

コメントする