一年にわたって書かせていただいたこのコラムも今回で最後となります。1873年、キリスト教禁止の高札が撤廃され、再びこの国での宣教が始まりました。来年で150年が経とうとしていますが、残念ながらクリスチャン人口は1%の壁を越えることなく、最近は高齢化と共に減少傾向にあることは残念でなりません。遠藤周作が「沈黙」の中で、「この国は(すべてを腐らせていく)沼だ」と述べて、キリスト教宣教の困難さを暗示しましたが、このままでいくと本当に日本のキリスト教会は沼に沈んでしまいかねない状況です。
しかし、「この方(イエス・キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)という宣言は事実であるし、「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおら」(テモテ2 2:4)れるのならば、このまま福音を沼底の堆積物にしてはなりません。目を世界に転じるならば、至る所で福音は拡大し、魂は救われ続けています。「リバイバル」という言葉は、一度去ってしまったブームが再燃することを意味します。日本でも、明治から大正にかけて、確かにキリスト教のブームがあり、多くの人たちが救われ、この国の文化にも影響を与えました。今回お話ししている「日本語になった聖書の言葉」がその証拠です。
では、キリスト教にリバイバルが起こるのはなぜでしょう。それは福音に真の命が宿っているからです。死んだと思われても、再び命を吹き返す。それが福音の神髄です。イエス・キリスト御自身がそうだったからです。今日紹介する言葉は、まさしくその真理を言い表しているといえましょう。
イエス答へて言ひ給ふ「人の子の榮光を受くべき時きたれり。誠にまことに汝らに告ぐ、一粒の麥、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果(み)を結ぶべし。己(おの)が生命(いのち)を愛する者は、これを失ひ、この世にてその生命を憎む者は、之を保ちて永遠の生命に至るべし。」 ヨハネ福音書12章23~25節/文語訳
文語訳(大正訳)の本文と、表題としてあげた「一粒の麦もし死なずば」という表現には微妙に違いがあります。その原因は、この言葉を有名にした背景にあります。「一粒の麦もし死なずば」というのは、「狭き門」で有名なアンドレ・ジッドの自叙伝的小説のタイトルで、1950年(昭和25年)に邦訳されて出版され、話題となったそうです。また、1931年(昭和6年)に、賀川豊彦が「一粒の麦」という小説を発表し、翌年には日活が映画化したという記録も残っています。この本は2007年に再版され(何度目かの)、読み継がれています。更にこの言葉を有名にしたのは、三浦綾子の「塩狩峠」(1968年刊行)でしょう。自分の命を犠牲にして列車を止めた永野信夫さんのストーリーは、1973年に映画化され、多くの人たちに感銘を与えました。かつて、教会で映画の上映会と言えば「塩狩峠」だったことを懐かしく思い出します。
あらためて現代訳(新共同訳)で本文を読んでみましょう。
イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」
この言葉は、植物の性質を説明した言葉ではなく―当たり前ですが―、イエス様がご自分を一粒の麦にたとえて、自らの死と、その先に生まれる多くの命について宣言されたものです。イエス様はなぜ、私たちに永遠の命を与えるために、ご自分の命を捨てられたのでしょうか。創造主なのですから他にいくらでも方法はあったはずです。しかし、あえて「地に落ちて死」なれたのです。それは、パウロが「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(コリントⅡ 15:20)と述べているように、自らの死と復活によって、永遠の命が確かにあることを証明するためです。イエス様ご自身が「リバイバル」なのです。
唯一無二の福音を、日本という底なし沼で腐らせてしまわないために、私たちはどうするべきでしょうか。それは、イエス様に習う以外に方法はありません。すなわち、自らが犠牲となって福音の種を蒔き続けることです。「自分の命を愛する」とは、自分一人が生き延びるようとすることを意味します。もしそう思っていたら、何も起こらないし、永遠の命に至ることはできません。しかし、自分の命を憎むほどに軽視し、福音のためにすべてを献げるなら、私たちの中の福音は命の輝きを放ち、新たな命を生み出すことでしょう。
私たちの主に習って、私たち一人一人が自分に死ぬならば、フランシスコ・ザビエルによってはじめて福音がもたらされたときのような福音の嵐が、再びこの国に吹き荒れると私は信じています。
執筆者紹介
堀川 寛
三滝グリーンチャペル牧師
中央聖書神学校 学監
広島県スクールカウンセラー
臨床心理士
公認心理師
不登校児のためのフリースクール主催(1997~2000年)
ひきこもり状態にある方々の支援(2008年~)
パソコン聖書ソフト「J-ばいぶる」の開発
妻と息子二人と犬一匹(チワワ)
趣味:ゴルフ・スキー・チェロ・落語鑑賞など
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