ペトロはAD/HDだ。発達障害に詳しい人が新約聖書を読めば、ほぼ全員がそう思うだろう。AD/HDとは、発達障害の一種である注意欠陥多動症のことである。AD/HDは、その名前の通り、注意欠陥(不注意・注意散漫)、多動(落ち着きがない)、そして衝動性という特徴を持っている。ペトロの場合、特に3番目の特徴が顕著である。
月刊アッセンブリーNEWS連動記事
2022年 5月号掲載記事と連動
ぜひそちらもご覧ください。
ヨハネ福音書21章によると、ペトロは復活したイエス様にお会いしたにもかかわらず、ガリラヤ湖に帰って漁師をしていた。そこへイエス様が現れ、仲間が「主だ」と叫んだので、「裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ」(21・7)、とある。ガリラヤに逃げ帰ったことが後ろめたかったのか、誰よりも早くイエス様にお詫びしなければと直観した。しかし裸ではまずい。慌てて上着を羽織って湖に飛び込んだ。漁師のペトロでもさぞかし泳ぎにくかっただろう。彼の衝動性を象徴する出来事である。マタイ福音書14章の、いわゆる水上歩行の記事も彼の特徴を良く表している。湖上を歩いておられたイエス様を、弟子たちは『幽霊だ』と言って恐れたが、ペトロは、『主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください』と頼んだ。イエス様が『来なさい』とおっしゃったので、「ペトロは舟から下りて水の上を降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。」(14・28~30)とある。ここには、ペトロの後先考えない衝動性と同時に、類い希なる行動力も描かれている。これもAD/HDの特徴なのである。他にも、イエス様を、「メシア、生ける神の子です」と断言した直後、受難の予告を聞いてイエス様をいさめた事件(マタイ福音書16章)や、できもしないのに、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(マタイ26・33)と言っておきながら、三度もイエス様を知らないと言ったエピソードなどにも、彼のAD/HDらしさが現れている。
ペトロの説明が長くなったが、彼をAD/HDだと思うのには訳がある。私自身がAD/HDなのだ。しかもペトロより重症の。小さい頃から落ち着きがなく、忘れ物が多く、思いついたらすぐ行動するのは良いが、それまでやっていたことを放置してしまう。危険な場所や行動が好きで、怪我ばかりしていた。四十を過ぎて大学院に入ろうと思ったのも、AD/HDのなせる業?かもしれない。今では、スマホと賢い妻のお陰でずいぶん減ったが、以前は約束を忘れて迷惑をかけることも少なくなかった。なので、ペトロの記述は、他人事とは思えない。
私が子どもの頃、AD/HDなどという「括り」はなかった。多動や衝動性など、同じような傾向を持つ子どもが少なくなく、それは恐らく「生まれつきの脳の障害(傾向)」に違いない、と認定?されたのは1980年代になってからである(最初の発見はそれより少し遡る)。日本でも、学級崩壊が社会問題となった1990年代の後半から徐々に知られるようになったが、後述するASDなどと共に、公的に「発達障害」が認められたのは、2006年に施行された「発達障害者支援法」以降である。認知されたのは極々最近だが、ペトロの例にあるように、そして歴史上の有名な人物に、発達障害という物差しを当ててみると、当てはまる人は少なくない。ということからすると、発達障害は「古くて新しい障害」と言えるかもしれない。
しかし、発達障害を「障害」呼ばわりしているのは社会の方である。この国では、体や脳の欠陥や不調により、公的な支援が必要な人を「障害者」と呼ぶ。まるで彼らが社会の障害、あるいはお荷物であるかのような言い方であり、この言葉そのものが差別であるという意見もある。ペトロのような―あるいは私のような―、少々の変わり者は昔から少なくなかった。しかし「障害者」呼ばわりはされなかった。なぜなら、社会が彼らを「障害者扱い」しなかったからだ。ではなぜこの四半世紀の間に「障害」になってしまったのだろうか。それはひとえに社会の不寛容さに原因がある、と私は考えている。もともとこの国は「出る杭は打たれる」と言って、個性的な人を敬遠する風土があった。しかし、今では「発達障害者」として健常者の外に置かれるような人たちも、かつては「障害者扱い」はされなかったのだ。彼らを吸収し、共に生きる社会だったのだ。
翻ってイエス様はどうだろう。イエス様は当然ペトロのおっちょこちょいで衝動的な性格を見抜いておられたはずだ。しかし、そんな彼に「岩」というあだ名をつけ、何度失敗しても許し、最後には「わたしの小羊を飼いなさい」(ヨハネ福音書21:15)と命じて、イエス様の大切な弟子たちを託された。ペトロもこの付託に応えるべく、初代教会のリーダーとして働き、教会の礎石となった。
「発達障害」は、”Developmental Disorder”の訳語である。この表現には、発達の過程において一般的な子どもとは異なる特徴を有しているので、それに見合った教育や支援を必要とする、という意味が込められている。逆に言えば、彼らの特性に合わせて教育するなら、彼らの優れた個性が開花することを意味している。エジソンはあまりにもこだわりが強く、授業を妨害すると言うことで小学校から見放されてしまった。しかし、母親や辛抱強く息子と関わり教育したことで発明王になれたのである。一般の学校教育にとっては「障害」となる個性的な子どもたちが、その能力に見合った教育を受けられる日は来るのだろうか。
つづく
📝 記事の感想等は、下方のコメント欄をご利用ください
感想・コメントはこちらに♪
コメント一覧 (1件)
発達障害という言葉に惑わされて、重苦しい主題(勝手にそう思っていました)についてどのように語られるのか、ドキドキしながら読み始めました。読み終えてよ~~く解りました。慈しみの眼差しを向け「Jesus loves AD/HD!」と、このことについて解き明かしてくださると解りました。身近に見聞きしていることですし、娘が教諭として長く勤めていますので少なからぬ関心を持って読みました。心のケアを主題とするこの欄で、発達障害について学び、自分を、隣人をよく知りたいと思います。偶数月の掲載とのこと、二月後まで待てません!!!が今号をしつこく読みながら待ちます。堀川先生ありがとうございます。