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聖霊の炎を掲げて ⑭

「戦前最後の日本聖書教会 及び
米国アッセンブリー教団宣教師団議長」


鈴木正和 
中央聖書神学校講師
水場コミュニティーチャーチ牧師

ノーマン・バース(Norman Herbert Barth)【1905~1973】
グレイス・バース(Grace Elizabeth Barth)【1907~1972】
在日期間【1928-1941】
子供たち【エスリン(1929生)、メレディス(1932生)、ケネス(1939生)】

 ノーマン・バースは戦前の日本アッセンブリー教団の前身であった日本聖書教会と米国アッセンブリー教団宣教師団の最後の議長でした。彼が日本で過ごした1928年から1941年の足掛け13年は日本のみならず日本聖書教会にとっても激動の時代でした。戦前は宣教師と日本人伝道者が一つのネットワークを形成して宣教活動をしたのですが、バースは彼の元にいた伊藤智留吉、村井屯二(「屯」の下に「二」で読みは「ジュン」)、朝倉敏、長島ツル、大地兼香などの日本人伝道者たちと連携して、日本聖書教会の本流として積極的に日本の宣教活動をリードしていました。

 歴史を語る時に「もしも」はないのですが、もしも戦後にバースが再来日を果たし、もしも伊藤智留吉が戦死していなかったならば、日本アッセンブリー教団の成り立ちは異なっていたかもしれません。今回は米国の近代ペンテコステ運動の初期から戦前の激動期の日本のペンテコステ運動をバース夫妻の軌跡を通して見て行きます。

米国ペンシルバニア州ニューカッスル

 ノーマン・バースは1905年9月6日にペンシルバニア州ニューキャッスルのドイツ移民の家庭に生まれます。父のカールはブリキ屋でした。彼には二歳年上の兄ハロルド、八歳年下の妹グレイスがいます。1922年にミズリー州スプリングフィールドに米国アッセンブリー教団の宣教訓練学校であるセントラル・バイブル・インスティテュート(CBI)が設立されると、バースは翌年の1923年に入学します。

セントラル・バイブル・インスティチュートの在校生(1923年)
最後列左端がノーマン・バース
前から三列目の右から4人目がアグネス・ジュルゲンセン

 彼の家族はニューキャッスルの米国アッセンブリー教団のファースト・ペンテコスタル・チャーチのメンバーでした。この教会が設立されたのは1909年のことで、前年の1908年にニューカッスルにクリスチャン・ミッショナリー・アライアンスの教会が設立され、そのメンバーたちがロサンジェルスのアズサ・ストリートのリバイバルを伝え聞いて聖霊降臨を待望して祈祷会を開きます。そしてそこで聖霊体験をする人たちが起こされ、異言が語られ癒しがなされます。そのことを伝え聞いた同市のメソジスト教会のメンバーたちもこの祈祷会に加わり、そして彼らも聖霊体験をします。聖霊体験をしたこの二つ教会のメンバーたちはそれぞれの教会に留まることが許されず、一緒にファースト・ペンテコスタル・チャーチという新しいペンテコステ派の教会を立ち上げます。この教会のコアとなったのは十五家族でした。

 この教会は設立当初からユースキャンプなどを通して海外宣教の重荷が与えられ、後に多くの若者たちが世界に飛び立って行きました。バース自身も十歳の時に宣教師になる志が与えられたと言います。1926年に米国アッセンブリー教団の宣教師として来日したゴードン・ベンダーもこのニューキャッスルの教会の出身でした。後にマリアとアグネスのジュルゲンセン姉妹やフローレンス・バイヤスもこの教会を訪問しています。

 バースは1926年にCBIを卒業しますが、彼の在学中に後に日本で共に働くことになるアグネス・ジュルゲンセンやネティ・グライムズ(ジュルゲンセン)もCBIで学んでいました。バースは1927年6月9日にペンシルバニア州ランカスターでグレイス・ヒルと結婚します。グレイスは1907年1月13日にランカスターに生まれたドイツ移民の子で、父のルイス・ヒルは米国アッセンブリー教団の牧師でした。グレイスはジョン・ジュルゲンセン夫妻の母校であるニュージャージー州ノース・バーゲンのビューラーハイツ聖書学校に学び1924年に卒業しています。彼らの新婚旅行はナイアガラの滝をはじめ東部の名所でした。

セントラル・バイブル・インスティチュート卒業時のノーマン・バース(1926年)
【Olive Bender, I Remember (First Pentecostal Church, 1977), p. 75.】

日本へ

日本宣教に赴く際のノーマン・バース夫妻(1928年)
【“Introducing,” Christ’s Ambassadors Monthly (1928-06), p. 2.】
日本宣教に赴く際のノーマン・バース夫妻(1928年)
【“Introducing,” Christ’s Ambassadors Monthly (1928-06), p. 2.】

 バース夫妻は1928年4月20日には米国アッセンブリー教団の宣教師に任命され、5月9日にはフローレンス・バイヤースとネティ・グライムズと共に、ジョン・ジュルゲンセン夫妻に伴われてサンフランシスコから天洋丸に乗船して日本に向かいます。この時バースは弱冠満22歳でした。彼らは当初は長崎へ行くことを願うのですが、まず東京の滝野川町675番地に住み、日本語を学びながら滝野川のカール・ジュルゲンセン一家の働きを助けます。翌年の1929年4月にはそれまでの日本ペンテコステ教会が再編され日本聖書教会が設立されています。1929年8月27日には軽井沢で長女のエスリン・フェイが生まれます。バースは1930年9月6日に米国アッセンブリー教団日本支部会から正教師の認証を受けています。

 1941年の東京大空襲で消失しますが東京の大塚にはカナダアッセンブリー教団所属のモンロー夫妻が1920年に設立した大塚教会がありました。モンロー夫妻の意に反して、1927年にカナダアッセンブリー教団が日本宣教から撤退することになり、モンロー夫妻は帰国し、大塚教会はベンダー夫妻に委ねられます。ベンダー夫妻が1931年6月に休暇帰国する際には、その留守を友人のバース夫妻に委ねます。

伊藤智留吉の按手礼記念写真 (1937年5月5日)
米国アッセンブリー教団副理事長フレッド・ヴォグラー、伊藤智留吉、ノーマン・バース
【Akiei Ito, “Identifications from Japan,” Assemblies of God Heritage (1999 Spring), p. 37.】

横浜での最初の洗礼式【受洗者11名】
(1931年9月20日)

後列右からノーマン・バース、伊藤智留吉

【Norman Barth, “Opening a Work in Yokohama, Japan,” Pentecostal Evangel (1931-12-12), p. 9.】

「…十月四日第一日曜晴天秋晴に新生した兄姉は朝早くより教會に押掛け先づ祈祷會、準備をととのへて十時出発横濱市電二の谷下車遊楽園(水泳浴場)にて十七名の兄姉(内六名突然缺席)宣教師バース先生より父と子と聖霊の名に依る水の洗禮式は行はれました その後いよいよ深められ高められて強められて皆共に一つになつて前進して居ります。…」【伊藤生「各地教會報 横濱教会」『後の雨』第13号(1931年11月1日)、6ページ。】

 この年の3月にはバース夫妻は兵庫県柏原の日本自立聖書義塾で学んでいた大塚教会出身の伊藤智留吉夫妻を招いて共に横浜での宣教活動を開始します。この時バース夫妻は篠原町1720番地に居住しています。またこの年大塚教会の伝道師であった長島ツルを茨城県の関本の開拓伝道に派遣します。1932年2月4日には次女のメレディス・リンが横浜で生まれます。1932年6月7日に大塚教会の中山万吉牧師が突然召されたために、バースは10月に巡回伝道者であった村井屯二(「屯」の下に「二」で読みは「ジュン」)を大塚教会の牧師として招聘します。1933年には関本に朝倉敏夫妻を派遣し、長島ツルが長後での開拓伝道を始めます。このようにバース夫妻は横浜に軸足を起きながらも東京、茨城、神奈川での宣教活動をサポートします。

 来日から5年目のバース夫妻は1933年12月に二人の子供たちを伴って休暇帰国し1935年9月に再来日しますが、ベンダー夫妻は満州事変の影響もあって再来日することができず、バース夫妻が引き続き横浜の教会と共に大塚日本聖書教会の責任を持つことになります。1936年9月30日から日本聖書教会の聖霊盈満会が三日間横浜で開かれます。この集会が日本のペンテコステ運動のターニングポイントの一つでした。この集会に大阪の粉濱教会の上井乙熊や静岡の山田盛彦などが参加し、その後日本でのペンテコステ運動が拡大し聖霊の炎が広がっていきます。この年からバースは大塚日本聖書教会の村井屯二(「屯」の下に「二」で読みは「ジュン」)の『聖霊』誌の発行を支援しています。1937年5月5日に伊藤智留吉はバースを介してニュージーランドとオーストラリア歴訪後に来日した米国アッセンブリー教団副総理のフレッド・ボグラーからバース夫妻宅で按手礼を受けています。

ノーマン・バース夫妻の栞(1935年頃)
In the Whitened Harvest Field: What are we doing for her unevangelized 65 million souls?
【Flower Pentecostal Heritage Center, Springfield, Mo】

横浜での第二回洗礼式【受洗者18名】
(1933年9月17日)

前列左端がノーマン・バース、後列右から二人目が伊藤智留吉 【“A Glimpse into Japan,” Pentecostal Evangel (1934-03-03), p. 10.】

バース夫妻と日本人伝道者たち(1936年)
前列左から長島ツル、ノーマン・バース、グレイス・バース、大地兼香
後列左から朝倉敏、伊藤智留吉、村井屯二(「屯」の下に「二」で読みは「ジュン」)
【Norman Barth, “Meet Some of Our Japanese Workers,” Pentecostal Evangel (1936-08-08), p. 8.】

日本聖書教会の再編と日本基督教団への加盟

 1937年8月にノーマン・バース、ジョン・ジュルゲンセン、ジェシー・ウェングラー、村井屯二(「屯」の下に「二」で読みは「ジュン」)、弓山喜代馬が会して日本聖書教会の再編を試みますが、結果的には1938年にマリア・ジュルゲンセンと弓山喜代馬の滝野川聖霊教会が日本聖書教会から離脱して滝野川聖霊教会を設立することになります。バースは1938年10月に朝鮮五旬節教会を助けるために、英国アッセンブリー教団のジョン・クレメントと共に京城を訪問し、そこで三人の朝鮮人伝道者たちに按手礼を授けています。1939年6月2日には長男のケネス・マーリンが横浜で生まれています。

 1939年4月の宗教団体法の成立を受けて、日本の諸教会は構造改革が余儀なくされます。1940年2月2日に日本聖書教会の緊急理事会が開かれ、日本聖書教会は米国アッセンブリー教団から独立し、日本聖書教会理事長であったバースや他の宣教師の理事たちはその職から退き、大塚日本聖書教会の村井屯二(「屯」の下に「二」で読みは「ジュン」)を監督として日本聖書教会の責任を委ねます。1940年4月に宗教団体法が施行され、日本聖書教会は日本聖書教会教団として日本人主導の教団となります。

 米国アッセンブリー教団宣教師団はジョン・ジュルゲンセンが1938年11月に亡くなり、既に隠退してカール・ジュルゲンセンも1940年9月に亡くなったために、当時日本で活動していたのはノーマン・バース夫妻、フローレンス・バイヤス、アグネス・ジュルゲンセン、ネティー・ジュルゲンセン、フレデリケ・ジュルゲンセン(隠退)、マリー・ジュルゲンセン、ジェシー・ウェングラーで、バース以外は全て女性宣教師たちでした。

神奈川日本聖書教会の新年聖会
(1938年1月2日)

前から二列目中央にノーマン・バース夫妻と伊藤智留吉夫妻前列にバース夫妻のお子さんたちや伊藤夫妻のお子さんたち 【『一人の魂を求めて 伊藤トミノ証し集』(篠原教会、2002年)、51ページ】

帰国

 1941年3月2日バース一家の送別会が神奈川日本聖書教会で催され、3月11日にはバースは神奈川日本聖書教会の権利を全て伊藤智留吉に委ね、3月15日に3人の子供たちと共に横浜を出港して帰国の途につきます。この時バースはまだ満36歳でした。1941年4月4日にロサンジェルスに入港したバース一家は故郷のペンシルバニア州に戻り、当初はオランダ領東インド(現在のインドネシア)に向かうことを考えて巡回伝道をして準備を始めますが、1946年にそれを諦めては海外伝道部から国内伝道部に無期限に転籍しています。1947年からはチンチラを飼育するチンチラ牧場を開いて生計を立てるようになり、1950年までは米国アッセンブリー教団の教職に留まりますがその後は宣教活動から離れます。1960年代に子供たちの居住するカリフォルニア州サンタバーバラ移住しています。そしてサンタバーバラで妻のグレイスが1972年11月15日に亡くなり、バースも1973年6月18日に亡くなっています。二人の墓石はサンタバーバラのゴレタ墓地にあります。

晩年のノーマン・バース夫妻
【Olive Bender, I Remember (First Pentecostal Church, 1977), p. 88.】

ノーマン・バース夫妻の墓石(カリフォルニア州サンタバーバラのゴレタ墓地内)
www.findgrave.com

バースと共に働いた伝道者たちのその後

 バースと共に働いた日本人伝道者と彼らの教会はその後どうなったのでしょうか。伊藤智留吉の神奈川日本聖書教会は1941年6月6日に日本基督教団第10部に加盟し、翌7月7日に日本聖書教会教団を離脱し、1942年3月31日には日本基督教団篠原教会として認可されます。しかし伊藤は1944年に出征し帰らぬ人になります。関本の朝倉敏が1939年5月に病死したために静岡の長島ツルが関本に戻り、1941年6月には長島の関本教会と大地兼香の長後教会も日本基督教団に加入します。その一方で村井屯二(「屯」の下に「二」で読みは「ジュン」)は台湾の真耶蘇教会の影響を強く受けて独自の道を求め、日本聖書教会の本部教会であった大塚日本聖書教会は日本基督教団に加入せず、1942年5月にイエス之御霊教会教団という宗教結社を設立します。

 戦後になり1946年暮れに関本の長島と長後の大地の声かけで、それまで面識のなかった大阪の粉濱教会の川崎一と東京の神召教会の弓山喜代馬が出会い、日本アッセンブリー教団の設立のきっかけが作られます。そして1949年3月の日本アッセンブリー教団の設立の際には伊藤智留吉夫人の伊藤トミノ、長島ツル、大地兼香の3人の女性伝道師たちが教団創立メンバーとなるのです。

 バースがなぜ日本に戻ってこなかったのか、その理由を知ったのは長らく日本で活動したロバート・ハイムス宣教師へのインタビューを通してでした。ハイムス宣教師は米国に休暇帰国中のある宣教大会でバースと宿を共にしたことがあり、その際にバースはハイムス宣教師にとても重い喉の病気を患ったために宣教活動を続けることも日本に帰還することができなくなったと語ったとのことでした。

筆者:鈴木正和

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