MENU

聖霊の炎を掲げて ⑮

子供ホーム
(Children’s Home)


鈴木正和 
中央聖書神学校講師
水場コミュニティーチャーチ牧師

子供ホーム:日本で最初のペンテコステ派による児童養護施設

 日本で最初に設立されたペンテコステ派の児童養護施設(孤児院)は西宮の子供ホーム(Children’s Home)で、メアリー・テーラーの「一銭貯金」から始まり、1922年にメー・ストラウブによって創設され、フローレンス・バイヤスによって継承され、そして100年後の現在でも「社会福祉法人 神愛子供ホーム」として存続しています。

 創設者のストラウブの願いは、イエス様が「子供たちを私のもとに来させない」(マタイ19:13)と言われたように、子供たちの世話をして子供たちに本当の家庭を与え、そして主のために訓練することでした。

メー・ストラウブ Mae Straub【1888-1932】

メー・ストラウブの遺影
この写真は中央聖書神学校図書館資料室に残されています。

 ストラウブは1888年12月29日にニューヨークのブルックリンでドイツ移民の子供として生まれます。父はデパートのポーターをしており、兄が二人いました。ストラウブは15歳で信仰を持ち後に学校の教師となり、マンハッタンにある米国アッセンブリー教団の有名なグラッド・タイディング・タバナクルのメンバーでした。ストラウブはアメリカ巡回中の神戸で活動していたメアリー・テーラーと出会い、1921年9月13日に米国アッセンブリー教団の宣教師となり、母教会と米国アッセンブリー教団国内伝道部と協力のもと、テーラーの働きを助けるために1921年10月に32歳でドロシー・ミルズと共にテーラー夫人の娘のエスターを伴って来日します。ミルズは東京のジュルゲンセンの元へ向かい、ストラウブは神戸のテーラー夫人の元に向かいます。

 テーラー夫人が1921年にアメリカ巡回中に日曜学校や婦人会で「一銭貯金(ペニー・ファンド)」を奨励し、そこで集まった献金を元に1922年に西宮に「子供ホーム」を開設しストラウブがその責任者になります。当初は「Nishinomiya Pentecostal Children’s Home」という名前で、9人の孤児から始まり 後には30人以上を収容するようになります。住所は兵庫県武庫郡瓦木村高木240番地でした。1928年には幼児(病児)、女子、男子のために三つの家屋を寮として用いていました。

西宮子供ホームの子供たち【1928年】
Mae Straub, “Japanese Children’s Home,” Pentecostal Evangel (1928-07-28), p. 8.

 1924年6月に米国ペンシルバニア州スクラントンのD. H. マクダウェルの牧会するグリーンリッジ・アッセンブリー教会の出身のネリー・バートンがアニタ・ブランチ(後のベンダー夫人)と共に来日します。バートンは1920年から2年間ニュージャージー州のベテル聖書学校で学び、ベンダー夫妻はベテル聖書学校の一年後輩でした。バートンは神戸で日本語を学び、その後ストラウブの子供ホームの働きを助けます。しかし元々病弱であったバートンは健康を害し、1927年2月にジョン・ジュルゲンセン夫妻の休暇帰国に合わせて彼らと共に帰国します。1927年と翌年の『基督教年鑑』の「日本ペンテコステ教会」の項には、日本ペンテコステ教会には養育部があり、その部長がストラウブ、そして部員がテーラー夫人とバートンでした。

 1928年ごろからストラウブの働きを英国の南海岸のボーンマス出身の独立宣教師エマ・ゲールが手伝っています。ゲールは看護婦の資格を持っていて、子供たちの健康管理もありストラウブにとっては心強い助け手でした。1929年にヴィダ・バエアが子供ホームを訪問した際には、ゲールがとても献身的で子供たちをよく助けていると記しています。ストラウブとゲールは子供たちと同じ家屋に同じように住み、財政難で日々の食事も事欠く中で心から子供たちを愛し 養育し クリスチャンとなるように心血を注ぎます。財政難に悩まされていたストラウブは神戸の男子の商業高校でも教鞭を取っていました。孤児ではありましたが 子供ホームの子供たちは当時では珍しい洋服を着ていました。

  西宮子供ホームの夕食時の様子【1932年】
“Promoted in Glory,” Pentecostal Evangel (1932-10-29), p. 7.
右端がメー・ストラウブ

 ストラウブは子供たちが規則正しい生活をすることは霊的にも良いことだと考えてそれを励まし、また幼い子供でも自分のことをできるだけすることを励まします。子供たちは朝早く起き、家庭礼拝をし、朝食を取り、それから皆で家事をして、学校に向かいます。放課後はそれぞれの宿題をし、少し遊び、夕食を食べ、それからお風呂に入ります。就寝前には聖書を読み祈る時を持ちます。その他に週日には英語教育、聖書の学び、裁縫クラスがあり、土曜日の夜には特別な祈り会を持ち、日曜日は朝から四つの年齢層に分かれての教会学校があり、その後 高学年の子供たちは大人と共に日曜礼拝に出席し、昼食後に 高学年の子供たちは大人に付き添われ二つのグループに分かれて近隣の村で教会学校をします。夕食前は暗唱聖句の時間で、夕礼拝の時にその暗唱聖句を披露しあい、聖書の質疑応答などの時間があります。このような生活を通して子供たちの中から信仰告白するものや聖霊体験するものたちが起こされていきます。

 そんなストラウブですが1928年には健康を害し帰国が余儀なくされます。米国アッセンブリー教団日本支部の宣教師たちは会議を開き、急遽11月から八王子のジェッシー・ウェングラーが子供ホームに赴くことになり、八王子のウェングラーの留守はアグネス・ジュルゲンセンが守ることになります。

 ストラウブは休暇帰国中にも 重いリューマチにかかりましたが、幸い健康を回復し1930年10月に再来日し 子供ホームの働きに復帰し、ウェングラーは八王子に戻ります。しかしその2年後の1932年10月13日にストラウブは6ヶ月間の結核性腸炎の闘病の後に44歳で異国の地で天に召されます。神戸のアメリカ領事館の記録では彼女の連絡先として残されていたのはニューヨークのメイベル・ドリュー夫人と母教会のニューヨークのグラッド・タイディング・タバナクルのロバート・ブラウン牧師でした。

 亡くなった翌日彼女の遺体は法令に基づいて僅かな身のまわり品と衣服と共に火葬され、10月15日には神戸市春日野外国人墓地18区54の834に埋葬されました。死亡時に彼女の銀行口座には4963円23銭(ドルに換算すると1488.97ドル)あり、葬儀などの諸経費を引いた残金の4407円28銭が米国総領事館から米国アッセンブリー教団に返還され、それをストラウブを看取ったフローレンス・バイヤスが受け取っています。

 バイヤスはストラウブが亡くなる前の1932年の夏に軽井沢でストラウブから子供ホームの働きを託されていました。1933年にバイヤスがストラウブの働きを引き継ぐまでの間 子供ホームは閉鎖されることになり、同労者のゲールは西宮を離れて神奈川の長後で長島鶴と共に戸塚や厚木の開拓伝道に従事します。

メー・ストラウブのお墓【1933年】
“Only A Penny,” Pentecostal Evangel (1933-08-12), p. 8.
「己が生命を日本で主の働きのために捧げた私たちの愛する姉妹メー・ストラウブのお墓です。十字架に書かれた日本語の意味は『神の恵みを通しての勝利』です。お墓の前に咲いているのが見える花は彼女の生命の表現で、その花の香は彼女を知る全ての人の記憶の中に生き続けるでしょう。」【拙訳】

神戸米国領事の公告【1932年】

日本に親族がいないストラウブのために米国領事館は彼女の死後に負債者がいないかどうか日英両文で公告を出しています。

フローレンス・バイヤス Florence Mae Byers【1904-1989】

 フローレンス・バイヤス【1928年頃】
滝野川教会(現 神召キリスト教会)において
[米国フラワー・ペンテコスタル・ヘリテージ・センター所蔵]

 バイヤスはペンシルバニア州エデンベルで1904年1月26日に4番目の子供として生まれ、父のジェイコブはレンガ職人でした。1913年9歳の時に福音教会の特別伝道会で信仰を持ち、後に両親がベテル・ペンテコスタル・チャペルに行くようになり、家族全員が聖霊体験をします。バイヤスは12歳の時に聖霊体験をし、床に就く前の祈りの時に日本の幻を見て日本宣教を志します。1922年に地元のチャンバースバーグ高校を卒業し、その後は宝石店などで働きながら聖書学校へ行く資金を貯め母教会の働きを助けます。1926年から1年間ジョン・ジュルゲンセン夫妻が学んだニュージャージー州のビューラ・ハイツ聖書学校で学び1927年に卒業しています。

 バイヤスは神学生の時に休暇帰国中のジョン・ジュルゲンセン夫妻から直接日本の話を聞いて彼女の日本宣教の志が確かなものになります。そしてジュルゲンセン夫妻の誘いもあり1928年5月9日サンフランシスコで天洋丸に乗り込み、米国アッセンブリー教団の宣教師としてネティ・グライムズ(後のジュルゲンセン夫人)やノーマン・バース夫妻と共に5月29日に来日します。来日後彼女は西巣鴨321番地に住み日本語を一年半ほど学びながら滝野川のカール・ジュルゲンセン一家の働きや富士前の谷力夫妻の働きを助けます。1929年11月にはジュルゲンセン姉妹の休暇帰国に伴って日本語の学びの他にも多くの責任が与えられます。

 バイヤスはジュルゲンセン姉妹の帰国を待って、1931年に新たに浦和に開拓伝道を滝野川聖霊神学院の神学生であった徳木力と始めます。10月4日は伝道所を開き子供たちも多く集まって浦和の開拓伝道は順調でしたが、1932年の夏に健康を害し軽井沢で静養してストラウブから子供ホームのことを託されます。夏も終わり軽井沢から西宮に戻ったもののストラウブは健康がすぐれず、9月にバイヤスに支援を求めバイヤスはストラウブを介護するために西宮に向かいます。その後ストラウブは一時持ち直しますが10月に帰らぬ人となります。

フローレンス・バイヤス【1951年頃】
神愛子供ホームにて

 まだ28歳であったバイヤスは子供ホームを引き継ぐことに自信がありませんでしたが、それを御心と感じ米国アッセンブリー教団本部とニューヨークのグラッド・タイディング・タバナクルのブラウン牧師の勧めもあって、浦和の働きを徳木力に託し、バイヤスは1933年2月10日にストラウブの後継者として西宮に移ります。徳木力は1933年12月に横浜教会出身の西宮利と結婚し1934年に滝野川聖霊神学校卒業します。徳木力夫妻は1934年5月にバイヤスに招かれて浦和を並木善麿夫妻に託して西宮に移ります。

 西宮に移ってからのバイヤスの生活は大変でしたが、その働きは実りが多く全ての子供たちが救いの体験をしたと報告しています。ある日曜日の朝に聖霊待望会を持つと二人の少女が聖霊体験をし、1934年には年長の明田餘作と聖霊体験をした女子のうちの一人が東京の滝野川聖霊神学院に入学しています。

西宮子供ホーム【1933年】

“Pentecostal Blessings, Nishinomiya Children’s Home, Japan,” Pentecostal Evangel (1933-08-12), p. 8.
バイヤスは「全ての子供たちが救いの本物の体験をしている」と報告しています。

 バイヤスは1934年10月に休暇帰国する際に子供ホームの働きを助けてくれる人を探しますが見つからず、ゲールが留守を預かっています。バイヤスは1934年11月2日に横浜を出港し清澄丸でパナマ運河を渡り、11月29日にニューヨークに着き、故郷に戻ってから巡回訪問を始めます。そして1936年に3月にニューヨークを出帆しロサンジェルスを経て再来日します。

 1936年9月に横浜の日本聖書教会の聖霊盈満会に参加したバイヤスの日本人助手が聖霊体験をしたこともあり、その後子供たちの中から6人が聖霊体験をし、神学校に行く女子も与えられます。バイヤスは腹膜炎を患いますが癒され、幸いバイヤスの父が1936年12月に娘の働きを助けに来日します。1936年には子供ホームは24人の孤児を収容し3人の日本人助手たちがいました。1940年には西宮に1600坪の土地を取得し、50名定員の養護施設の新しい建物が与えられます。しかし戦雲高まる中 1941年2月にバイヤスは子供たちの行く先を決めてから子供ホームを閉鎖し 土地を聖和女子大学に売却して3月に帰国の途に就き、ハワイを経由して4月1日サンフランシスコに着きます。

西宮子供ホーム
“Back to Japan,” Pentecostal Evangel (1936-03-28), p. 6.【1936年】」
後列左端が徳木力、中列中央がフラーレンス・バイヤス
戦前の子供ホームと今津教会の日曜学校【1937年】
“Good Letter from Japan,” Pentecostal Evangel (1937-10-30), p. 6.

 ペンシルバニアに戻ったバイヤスは巡回伝道を続けますが、1945年4月16日にハワイに政府の仕事で赴き、その傍ら日系人教会でも奉仕します。そして後にはハワイの日本人捕虜収容所で伝道する機会も与えられ、その時にバイヤスたちの働きに耳を傾けた日本人捕虜の榎本正明は帰国後ホーリネスの牧師となっています。

 日本への帰還を申請したバイヤスは2年足らずのハワイでの生活を終えて1947年1月3日にはパンナム機で本土に戻り急遽再来日の準備をします。一年分の食料品一トンも備えなくてはいけないものの一部でした。バイヤスは4月に特別な軍政府の許可を得ると1947年 8月26日に再来日を果たします。

 バイヤスはまず東京の武蔵野の黄金井正宅に落ち着き 東京や横浜の教会を助けていました。そして1948年2月10日に関西に戻り、神戸市東灘区住吉町縄手下の福田允子宅に落ち着き、毎週木曜日には霊的母と慕う旧友の沖千代と祈祷会を開きます。ここに集まった人たちが後に東灘神愛基督教会の核となります。

 徳木力夫妻1933年に近隣の今津にバイヤスと共に日本聖書教会今津教会を開拓しますが、1945年8月6日に空襲で焼け出され徳木自身も足に火傷を負います。バイヤスの招きに応じ 彼らはバイヤスと共に子供ホームの再開の準備をします。バイヤスは1949年戦前に西宮の子供ホームの土地を売却した資金を元に福田宅とはそう遠くない東灘区手崎にあった紫山荘を購入します。紫山荘はかつて宮様も泊まったことのあるという日本生命の弘世家の隠居所として設計された檜造りの豪邸(668坪の土地と171坪の建物)でした。敗戦後は進駐軍に接収され外国人高級ダンスホールのホテル紫山荘となっていましたが、それをバイヤスが購入します。

 バイヤスは紫山荘を友人たちの力を借りて整備し1950年2月16日に東灘神愛基督教会の献堂式を行い、1950年6月に日本アッセンブリー教団に加盟します。1950年7月18日に厚生省の認可を受け4人の孤児の女の子たちを預かって東灘神愛子供ホームとして子供ホームを再開します。「神愛」は沖千代の神愛基督教会から取りました。神愛子供ホームの当初の定員は14名でしたが、1951年には定員20名となります。1968年にバイヤスは長年の子供ホームの働きが認められて瑞宝章を叙勲しました。

バイヤスによる
神戸の働きの報告文【1952年】

Florence M. Byers, “Kobe Work Moving Forward,” Pentecostal Evangel (1952-03-23), p. 6.

写真左:CAリーダーであった北野耕一師
写真中央:4名の方の洗礼式
写真右:子供ホームの子供たちと二人の日曜学校の生徒たち

 1971年11月21日に原因不明の火災によって紫山荘が全焼します。幸い子供たちの半数は関西聖会に泊まりがけで行っていたこともあり人的な被害はありませんでした。当時米国アッセンブリー教団はバイヤスの老齢もあり福祉ではなく宣教に重心を置くことを求めて子供ホームの閉鎖と売却を勧めていました。建物が全焼したこともあり米国アッセンブリー教団本部は子供ホームの閉鎖の決定をします。しかし閉鎖を惜しむ声や巣立っていた子供たちの様子を見た地元の行政などの理解を得て、バイヤスは土地の一部を売却して以前は集会所と女子宿舎だった場所に3階建ての建物を立てて、火事にあってから一年7ヶ月後の1973年6月に子供ホームを再開します。1974年1月11日には 社会福祉法人 神愛子供ホーム としての認可を受け、4月1日には定員30名の許可を得ます。バイヤスは1976年8月20日に72歳で引退し帰国します。

 神愛子供ホームから1980年までに約180名の孤児たちが巣立って行き、子供たちの中には信仰を持ち聖霊体験をする者も起こされました。バイヤスは1989年7月13日に85歳でペンシルバニア州ジョンズタウンで亡くなります。神愛子供ホームは現在でも御影神愛キリスト教会の杉本俊輔名誉牧師を理事長として存続しています。【https://shinai-kodomo-home.com

関西地方の宣教のハブとして

 バイヤスが1948年2月に関西に居を移しますが、彼女の居所が関西のペンテコステ派教職たちの核になり、沖千代、内村誠一、川崎一、岩元藤雄、斎藤仁男、徳木力、栗谷尚、山田盛彦、山路寿子、宮内千賀子、ルース・フロイド、メアリー・スミスなどが集い、定期的に教職研修会が行われていました。当初から紫山荘は児童養護施設としてだけではなく教会としての機能を持ち、バイヤスは日曜学校、野外伝道、大阪市立弘済院の訪問伝道などを徳木力夫妻と共に沖千代や内村誠一の助けを受けて始めます。そして紫山荘は日本アッセンブリー教団の関西宣教のハブとして用いられました。1953年11月の第一回関西聖会(関西秋期聖会)から10年以上も度々聖会などに用いられています。1960年御影神愛伝道館が献堂され、1971年の紫山荘の火災を受けて1972年に御影神愛伝道館が本部教会となって御影神愛キリスト教会に改称され現在に至ります。また開拓伝道の一つの実としてリチャード・ジョンストン夫妻による尼崎神召キリスト教会(現 阪神チャペルセンター)も生まれています。またバイヤスの働きを通してこれまでに多くの献身者が輩出されています。

関西秋期聖会(第一回関西聖会)の案内
【1953年】
講師は弓山牧童(喜代馬)と米国アッセンブリー教団アジア宣教局長のE. W. ミンシーでした。
東灘神愛基督教会における第一回関西聖会の集合写真【1953年11月】
この聖会には日本アッセンブリー教団以外の北欧系のペンテコステ派の宣教師たちも参加しています。

「関西聖会報」『福音新報』(1953年11月1日号)には以下のような聖会の記事があります。

「(ミンシー)師には特に我々が信ずる異言を伴う聖霊のバプテスマを教理的に話してもらう筈で御願いしたが時によって順序も内容も自由自在に変えられた。二日目の午後などは、全く破の業で祈禱室に人々は殺到し、教職も宣教師も一つになって祈った。或者は受霊して溢るる喜に顔は輝き、或者は厳かに異言を語り、或者は観劇に涙滂沱として拭きもやらず、誰も手を降すことができない、ペンテコステの日もかくばやと思わせられ主を崇めた。ミンシー師が感極まって兩眼に涙を一杯ためて、只ワンダフルを繰返して居たのも忘れられない。以来祈禱室は祈禱の霊が溢れ或者は這入っただけで打倒れ聖霊のバプテスマを受け、終日祈りは絶えず未受霊の来会者は殆ど聖霊を受けた。」

  100周年を迎える神愛子供ホームは、テーラー夫人がその設立のきっかけを作り、ストラウブが設立し、それをウェングラー、バートン、ゲールなどが支え、そしてバイヤスに継承されますが、その陰にはここでは触れなかったルース・フロイド、マリア・スキルマン、エレン淳子山田(北野)、メアリー・スミス、施設長であった多治見ゑみ など多く女性たちがいたことを覚えます。

筆者:鈴木正和

📝 記事の感想等は、下方のコメント欄をご利用ください

この記事が気に入ったら
いいねしてね!

お友だちへのシェアにご利用ください!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

感想・コメントはこちらに♪

コメントする