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「きみにエールを送りたい~揺れる時期に寄り添って~」⑥

 嘉手納アッセンブリー教会 神山 美由記

 去年からテレビでたびたび見聞きするようになった「宗教2世」・・・。

旧統一教会(世界平和統一家庭連合)の信者の子どもとして育った人たちが大人になった今、幼少期から抱えていた苦しみや葛藤を涙ながらに訴えている姿が印象的です。
そして、被害者救済のために、法整備に向けても準備が進んでいるようです・・・。

 さて、そういうマスコミの内容を観て、「え、よく考えたら、自分も世間で俗に言う宗教2世?」と思った方がいるかもしれません。

テレビで観る“宗教2世”の方々の悲壮感や葛藤は自分にはないと思う人もいれば、日曜日に「教会に行くのは絶対マストで逆らえなかったな。」という人、「“教会に行きたくない”って言うと親に悲しい顔をされたり、怒られたりしたな。」と振り返る人もいるでしょう。

 マスコミから流れてくる情報をそのまま自分に当てはめてしまうと「2世クリスチャンとして親の信仰を強要されてつらい」「自由を奪われて大変だ」と自分の状況に否定的なフィルターを無理やりかけて思い返しそうになりますが、メディアがもたらす負の影響も無意識に生じてくることに注意しなければなりません。

 というのも、報道されている“宗教2世”はあくまでも「カルトや異端信仰を持つ親のもとに育った子ども」について限定的に取り上げられていることがほとんどです。

 しかし、クリスチャンホームとして育った皆さんも、ひょっとすると、親と教会に通う中で時には葛藤を抱えることもあるかもしれません。今回はそういった2世クリスチャンの皆さんを思い浮かべながら一緒に考えてみたいのです。

 ちなみに私の両親はもともとクリスチャンだったわけではありません。私がクリスチャンになった後、母や父が徐々に礼拝に参加するようになり、やがて洗礼へと導かれていきました。

特に母は金曜日の婦人会にも熱心に通い始めたのですが、主婦の皆さんが集う少人数の婦人会は母にとって格好の“しゃべり場”と化していきます。婦人会が終わってもおしゃべりに花が咲き、教会から帰ってきた母はいつも楽しそうに婦人会や礼拝での説教の話や、「〇〇さんの娘さんが△△高校受験するんだって。」「□□ちゃんはお付き合いしてる人がいるみたいよ。」と教会のメンバーのさまざまな話題を持って帰ってきました。次第にどこか不安を感じていた私の予感は的中。(笑)当時女子高生だった私にとって、トップシークレットであった自分の体重まで母が婦人会のメンバーに暴露していることを知り、「両親が救われたのは感謝だけど、家庭内のプライバシーはなくなるな。」と静かに覚悟を決めたものです。

 というわけで、私は親の信仰の影響を受けて、自分が教会に行き始めたわけではありません。ですから、2世クリスチャンとして育ってきた方々の気持ちが分かる部分もあれば、分からない部分も当然あります。

 しかし、私が教会の中で数々の家庭を見てきた中で言えることは、クリスチャンのご両親から信仰的な影響を受けて育つこと(これを「信仰継承」と言います。)自体は、皆さんにとって、とても尊く、影なる祈りに支えられて成長できることは本当に幸いなことなのです。

 数年前の話ですが、当時仕えていた教会で高校生二人(MちゃんとAちゃん)に洗礼講座を行っていました。

 二人ともお母さんがクリスチャンで、お腹の中にいるときから教会に通い、幼い時から教会の兄姉に祈られた中で次第に信仰が養われ、翌月に洗礼式を迎えようとしていました。

 その中で什一献金についての話題になりました。

 「お金に限らず、私たちに与えられたものはすべて神様からいただいたものだから、献金も感謝して捧げることが大切だよ。献金を準備する中で、先生はいつも神様が今月も養ってくださっていることを実感して心が感謝と喜びでいっぱいになるんだよ。神様から与えられた金銭についても正しく管理していこうね。」と3人で学び合いました。

 すると、Aちゃんが「わたしはお小遣いをもらうとき、お母さんが什一献金をしやすいようにって、小銭で什一献金分をわざと作って渡してくれているよ。」と言ったのです。そのお母さんは献金の分を差し引いてAちゃんにお小遣いを渡すことはせず、Aちゃんが献金を捧げる大切さを身をもって学ぶために、幼い時から献金分を振り分けやすいように小銭を混ぜてお小遣いを渡していたのです。Aちゃんが毎月のお小遣いだけではなく、お年玉などの臨時収入があった時もしっかりと10円単位で献金袋に捧げていた裏には、Aちゃんのお母さんの決して表には見えない工夫と祈りが隠されていたのだ、と感動したことを覚えています。

 クリスチャンの両親は、皆さんが思っている以上に陰ながら祈ってくれています。そして両親だけではなく、皆さんが集う教会の牧師先生、兄姉の一人一人が、幼く、若い魂のために心を込めて執り成しの祈りを積み上げてくださっています。

 時には教会と家庭で二面性のある両親の姿につまずきを覚えたり、親を裁いてしまう自分にとてつもない苦しさを感じることもあるでしょう。「せっかく覚えた聖書の御言葉を親を裁く時に用いてしまっている。それがとてもつらい。」という告白を聞いたことがあります。

 信仰を持つ親としては、やっぱり子どもと親子揃って教会に行きたいと思います。そして子どもが色々な罪の道に逸れることなく、まっすぐに神様のもとへと導かれ、信仰を持って欲しいと願うのです。その過程で、子どもを自分の良いと思う方向にコントロールしたいという誘惑が生じてくる時もあるでしょう。それが起こりやすいのは、子どもがクリスチャンになるか否かによって親自身の信仰が周囲から評価されたり、親自身がわが子への信仰継承をプレッシャーに感じてしまう時ではないでしょうか。

 ですからこれを読んでくださっている教会の牧師先生方、教会学校の先生方はそういう雰囲気が教会の中で醸成されていないか、自分達が子どもたちの信仰の成長を焦ることなく、穏やかに見守ることができているかをもう一度問い直していただきたいのです。

 それと同時に、子どもである皆さん自身も考えてみて欲しいのです。親の期待を裏切ってはいけない、親を喜ばせたい。早く信仰決心をして洗礼を受けて、牧師先生や親、教会の皆さんを安心させたい、そういう気持ちが芽生えたりすることもあるかもしれません。

 しかし、信仰はそれぞれが個人的にイエス・キリストを救い主として受け入れることからスタートします。そしてそれは神様からの賜物なのです。教会に導くまでのプロセスに親が関わったとしても、イエス様を信じて、クリスチャンとして歩んでいくかどうかの決心は皆さんと神様との個人的な出来事です。

 嘉手納の教会にYちゃんという小学4年生の女の子がいます。毎週彼女が提出してくれる礼拝のメッセージノートを見ると、大人顔負けの文章でメッセージの内容をうまくまとめているのです。信仰の決心らしき言葉も見受けられます。それを毎週見ながら、私が「そろそろ洗礼を受けてもいいんじゃないかな?」と、まず彼女の母親にそれとなく聞いてみました。Yちゃんの母親は「お家でも話してみますが、まず本人に聞いてみてください。」とのこと。その後、Yちゃんに「来月洗礼式があるけど、洗礼を受ける?」と確認すると、彼女はいつも首を縦には振りません。

 実はこのやり取りは今回に限ったことではなく、以前からのことです。しかし、彼女の母親は焦る様子は一切ありません。

 「洗礼を受けるということは、イエス様と共に歩む、という彼女の一生に関わる大切な決心だから、本人がその気になるまで、絶対に強制はしないでおこうと思っている。」と静かに見守っているのです。私もYちゃんの意思、そしてYちゃんの母親の思いを尊重して一緒に祈っていきたいと心に定めました。

 その出来事を通して改めて教えられたことがあります。

 子どもは親の所有物ではなく、神様から預かった命であること。それと同時に子どもの信仰も個人の所有物ではなく、神様からの賜物。親自身がそれを理解するときに、子どもの信仰の有無に関して、焦ることから解放されていきます。そして神様の時があることを期待して、じっくり祈りながら信仰継承のプロセスを委ねていくことが出来るのだ、ということです。

 信仰決心や洗礼決心に関わらず、受験や就職、結婚、献身など、人生の色々な節目で信仰の決断が必要な時が出てきます。その時に、皆さん自身がしっかりと神様に向き合うことからどうか逃げないで欲しいと思います。

 そして親以外に信仰の相談ができる同世代の友達や、教会の信仰の先輩方に時には甘えながら、助けてもらってほしいのです。私も「ちょっと聞いて欲しいんやけど…。」とよく同じ教会のメンバーに悩みごとや迷っている事柄を話し、一緒に祈ってもらう中で信仰が助けられてきました。家庭内で話せない本音を打ち明けることのできる相手がいることは、信仰の大きな支えとなっていきます。(イエスをみごもった母マリヤにとって、まさにエリサベツがそのような存在だったでしょう。)

 大人になって、皆さんが結婚をし、家庭を持つようになった時に、初めて子どものために親が陰でどれだけ祈ってくれていたかに気付くようになるでしょう。

 「私さ、親がクリスチャンで良かったって思うよ。もちろんケンカするし、お互い罪人だなって思うこともあるけどさ、親も人間だから間違うこともあるよね。そんな中でも神様が真ん中に立ってくれるから、赦そうっていう思いに帰ることができるんだよね。神様が真ん中にいてくれる家庭に導かれて本当に良かったって本当に思うよ。」

そう話してくれたユースのメンバーの言葉にとても励まされました。

 2世クリスチャンとして歩む皆さんが、ご両親をはじめとする教会の牧師先生や兄姉の温かな祈りを受けて、自身の信仰が育まれていきますように。

 そして、皆さんの信仰が次の誰かを励ますものとして用いられますようにエールを送りながらお祈りしています。

 皆さんがご両親や教会の皆さんにこれまでの信仰の導きに対して感謝を言い表すことが出来るようになるその日、ここまで成長に導いてくださった神様を賛美せずにはいられないでしょう。

「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。」

  第一コリント3:6

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