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「きみにエールを送りたい~揺れる時期に寄り添って~」⑧

嘉手納アッセンブリー教会
 神山 美由記

アフターコロナの時代がやってきた!

 新型コロナウィルスの発生から3年以上が経ち、いよいよ政府は5月8日から感染法上の分類を季節性インフルエンザと同じ5類に引き下げました。

このことによって社会の対応はぐんと変化し、飲食店からもパーテーションは撤去され、ディズニーランドやUSJなどの行楽地にも人の賑わいが戻っています。

きっとみなさんの中にも、GWには家族や友人とマスク無しでお出かけをして、楽しく過ごしたという人が多いでしょう。

 教会でも、待ってましたといわんばかりにお昼のランチが再開したり、コロナ前のようにお泊まりなどの楽しいイベントが計画されていると思います。

しかし、同じように土日のプライベートの予定が以前にも増して充実しているのではないでしょうか?

そんな時に、一つの誘惑が私たちの頭をよぎります。

「あ!オンライン礼拝すればいいんじゃん?」、「そしたら楽しいこと、自分のやりたいことに時間を割ける」、と。「必ずしも日曜日の朝に礼拝しなくても、その日の晩に家に帰ってからゆっくり自分の時間で礼拝すればいいんじゃん?」・・・そんなことを考えてしまうのです。

 何を隠そう私自身も同じようなことを考えていました。

当時はまだオンライン礼拝など今のように普及していない時代です。日曜日に学校の友だち、社会人になってからも会社の先輩からのお誘いはどんどん入ってきました。

その時、「日曜日の朝、個人的にディボーションして神様を礼拝したら、それでオッケーかな?」と、一瞬よからぬ発想に思い至りました。

さらに、「信仰的にヤバい方向に進みそうになったら、とりあえずここを読んだほうがいい。軌道修正できるから。」と言ってくれた信仰の友のアドバイスをふと思い出し、聖書を開いたのです。すると、その箇所が見事に私の心を貫きました。

「若い男よ(新共同訳では「若者よ」)、若いうちに楽しめ。

若い日にあなたの心を喜ばせよ。

あなたは、自分の思う道を、

また自分の目の見るとおりに歩め。

しかし、神がこれらすべてのことにおいて、

あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ。」

伝道者の書11:9

 一瞬、読むんじゃなかったと思うほど畏れが生じる箇所でした。でもこういう畏れほど、私の信仰にとっては必要な畏れでした。

 神様は私たちに自由意志を与えてくださっています。礼拝に行くのも、行かないのも、強制ではなく、本来はみなさんの自由です。だから私が礼拝を取るか、友人たちとの誘いを取るか、それは私の選択次第です。でもその選択がもたらす結果は選べません。

 つい先日、ある友人が「実はさ…20代の頃はけっこうヤンチャしてたのよ」と話してくれました。彼女は社会人になったばかりの頃は、毎晩浴びるようにお酒を飲み、荒れた生活を送っていたそうです。いつも仕事が終わると飲み屋を渡り歩き、そこで知り合った人と楽しくお酒を飲み、アルコールが体内から抜け切らないまま朝を迎えるような生活をしていました。すると、ある時健康診断で引っかかり、病院の先生に「お酒をやめるか、人生をやめるか、どちらかにしてください。」と言われたそうです。

連日の飲酒の影響で彼女の肝臓はこれまでにないほど傷つき、修復不能の状態でした。「この傷ついた部分を修復することはもうできないが進行を止めることはできる。お酒をやめることはできますか?」医者から究極の選択を突きつけられるまで、彼女は自分の選択がもたらした結果に気づくことはなかったのです。

 そういう意味でも私たちは「すべてのことにおいて」、神様のさばきの前に立つのです。だからこそ、やがて来る“結果”をイメージして、いま、目の前にある「自分の思う道」が果たして神様の心にかなった選択なのかと自身の心に問いかけてみることが大切です。

 さてその後、聖書のその言葉に圧倒された私はどうしたかというと…

いつか神様の前に立った時に「あの時、楽しそうな誘いに乗っかって礼拝さぼったやろ」と神様にツッコまれたら、言い訳しにくいなぁと思い、手に開いた伝道者の書の箇所にそっと栞をはさんで、「やっぱり礼拝に行こう。私が神様を第一に出来ていないと、家族や友人に胸を張って伝道できないや。」と思い直すことができました。やっぱりそれで正解だったのです。その日、後ろめたさの中で友達と過ごすことよりも、聖日に神様を第一に出来たという清々しさは何にも代えがたいものでした。そして、自分自身を保つために、やはり礼拝が不可欠なのだとハッキリ気付かされた経験でもありました。

教会での交わりの大切さ

 私たちがオンラインではなく、やはり対面で礼拝をすべき理由は使徒信条の中にもあるように「聖徒の交わり」があるからです。

オンラインの前では、背景も加工し、きれいに整えた自分を“演じる”ことができるかもしれません。しかし、対面だとやはり色々ボロが出てしまいます。でも、だからこそ良いのです。だれだって調子がいい時もあれば、悪い時もある。

礼拝の一番後ろに座っていると、教会に集う人たちの色んな後ろ姿が見えてきます。ウキウキしながら礼拝にのぞんでいる姿、心に重い荷物を抱えて集っている姿、賛美の時に手をあげて高らかに賛美する姿、メッセージの終盤で泣いている姿。そういう人それぞれのあるがままの姿を見るときに、私たちの全てを受け入れてくださっている父なる神様の大きさを知ります。

 それだけではありません。神様の前に喜びも悲しみも共に共有し、肩を抱き合いながら祈り合う兄弟姉妹の姿を見る時に、まさしく「聖徒の交わり」の豊かさを感じるのです。

ユースのみなさんには、そういう大人たちの姿を眺めながら、同じ空間の中で信仰を育んでいってほしいのです。泣いている信仰の先輩の姿を見る時に「自分も神様の前で泣いていいんだ、ここは泣ける場所なんだ。」と思ってほしい、一番前で恵まれて礼拝しているおじちゃんの後ろ姿を見ながら、「神様の前にこんなに自由になれたら」と倣ってほしい、礼拝を休んでいる他の誰かを気にかけて「誰が連絡して、誰が訪問に行く?」と相談しているオバちゃん達の会話のやりとりを聞いて「こうやって魂をケアしていくのだ」と学んでほしい、また、ふと思い立って久しぶりに礼拝に来た近所のあの子を笑顔で囲んでいる教会学校の先生たちの姿を見て「ああ、自分も愛をもって迎えてあげられる先生になりたい」とビジョンを持ってほしい…ここには書ききれませんが、教会にはそういう聖徒の交わりがあちらこちらに散らばっているのです。そしてそういう交わりの豊かさの真ん中にイエス様がおられて、微笑んでくださっているのです。

 クリスチャンも人間ですから、教会の中でも時には衝突や意見の食い違い、面倒に思える人間関係もあるかもしれません。しかし、その面倒な人間関係を通しても神様は私たちに神の国の価値観でどう歩みよっていくのかを問われ、人間的な限界を超えて互いに愛し合い、赦し合う神の交わりの中に育てられていくのです。

 愛するユースのみなさん、これからも“教会の交わりの中で”互いに成長していきましょう。

みなさんと共に成長したいと願う大人たちが、温かく迎えてくれるでしょう。そう、共に集まることが、教会が教会らしく、ユースが本来のユースらしく主にあって成長していく鍵なのです。

アフターコロナの教会がユースと大人たちの笑顔と笑い声の溢れる共同体としてますます成長していけるように、エールを込めてお祈りしています。

どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、

力をもってあなたがたを強めてくださいますように。

信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。

そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、

すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。

そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。

エペソ人への手紙3:16―19

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