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「きみにエールを送りたい~揺れる時期に寄り添って~」⑨

嘉手納アッセンブリー教会 神山 美由記

 先日のこと、絵本を検索していたときに、『にげて さがして』(ヨシタケシンスケ著、赤ちゃんとママ社:2021年)という本が目に止まりました。ふつうは絵本の場合、まず表紙の絵に目が留まることが多いのですが、この本の場合、タイトルに強く惹かれたのです。著者である絵本作家のヨシタケシンスケさんは、嫌いなことからずっと「逃げて」きたからこそ、いま、自分にとって居心地の良い場所を見つけることができた。――という自身の経験から、「逃げる」という言葉をポジティブにとらえてもらうことがねらいだと言います。

 『逃げるは恥だが役に立つ』(TBSテレビ:2016年)というテレビドラマも数年前に大ヒットしました。“逃げるは恥だが役に立つ”とは、もともとハンガリーのことわざで「自分の戦う場所を選べ」ということだそうです。いま自分がいる場所、置かれている状況にしがみつく必要は無い、自分の得意なことが活かせる場所へ行こう、逃げることも選択肢に入れよう、という意味だとか…。生きづらい社会の狭間にあって、「逃げる」ことが必ずしも否定的ではなく、肯定的に受け止められるきっかけとなったドラマだったように思えます。

 そう、かくいう私も逃げて、投げ出してしまった経験のある一人です。20代前半のころ、心身ともに限界を超えて、会社に行くことができなくなってしまい、落ち着く場所に身を寄せていた期間がありました。会社に行くと思うと胃が痛み、吐き気がして、心療内科を受診し、症状も具体的に訴えることができず、ただただ先生の顔を見るなり、(当時すでにいい大人でしたが)大号泣してしまいました。私のそんな姿を見て、お医者さんは即座に「もう大丈夫、心配しなくていいよ。ゆっくり休んでくださいね。」と言ってくれたのです。その先生の言葉に心底ホッとしたものの、それまで学生時代に不登校の経験がなかった自分にとってこの件は心に大きな影を落としたのです。自分だけが時計の針が止まっているように感じ、周囲から取り残されたように感じる休養の期間は、それまでの人生の中でもっとも暗く、苦しい時間でした。しかし、「逃げた」ように思えるその時間は「さがす」旅路の大切なキッカケとなったのです。それまでの毎日朝6時台に家を出て、夜22時に帰宅する生活から一転。ゆっくり起床し、昼間は散歩して、実家の手伝いをしたりしながら過ごし、夕方また散歩に出かけ、夜も早めにベッドに入る。そんな生活が二ヶ月ほど続きました。十分な食事と睡眠で、疲弊していた心身は次第に回復に向かいました。

 その時の自分はまるで、燃え尽きて荒野を彷徨っていたときのエリヤのようでした。神様は最初からエリヤの話を聞こうとされたわけではなく、エリヤを適度に歩かせて、眠らせて、食事を摂らせてから、肉体的な生活リズムを取り戻したころに、「エリヤよ、ここで何をしているのか」(I列王記19:9)と声をかけられました。

 その箇所をふと思い出し、散歩していた公園のブランコに揺られながら、ふと「神様、私はいまどこにいるのでしょうか・・・。」とつぶやいてみたのです。“お祈り“というよりも、独り言のような一言でした。

そのとき、神様は

「あなたはいま、わたしの隣にいる。」

と応えてくれたように感じました。

その言葉におどろいた私は、

「いやいや、今の私はあなたが望むような私じゃないでしょう。神様からずっと遠くにいるように思えます。」

と返しましたが、

「いいや、違う。あなたは今、わたしの隣にいる。」

と再び主の御声が心に響くのです。

ふと、隣のブランコに目を向けました。

自分以外、だれもいないように感じていた失意のブランコ。

しかし、主は私の隣で、一緒に揺れてくれていたのです。

 なぜ今回こういう内容を書いたのかというと、ここ最近、どうも「逃げる」あるいは過去に「逃げた」ことに対しての後ろめたさや負い目を感じている学生たちの話を聞く機会が多かったからです。家族と過ごすのが息苦しくて少しでも家庭から離れたい、学校で同世代とうまくコミュニケーションが取れなくて逃げ出したい、受験や進路と向き合うことに対するプレッシャーや疲れを感じている、など・・・。それぞれが色々な場所で葛藤を感じています。だからこそ、目の前のプレッシャーから逃げ出したくなったら、聖書の人物たちを思い出してほしいのです。

 神様から決して食べてはいけないと言われた果実を口にして、園から逃げ出したアダムとエバ、ニネベ行きを回避したかったヨナ、ミディアンの地に40年間身を隠したモーセ、父を騙して長子の祝福を奪ったヤコブ、イゼベルから命を狙われ、恐れて死にたくなった預言者エリヤ、イエスを知らないと3度裏切ってしまったペテロをはじめ、イエスの十字架を目前にして逃げ出した弟子たち、伝道旅行から一度は脱落したマルコ、主人を裏切ってローマに逃げたオネシモ・・・。

 そう、みーんな、一通り「逃げた」人たちです。でも逃げっぱなしではありませんでした。逃げて、自分の本当の居場所をさがして、神様にもう一度見出してもらった人たちです。

 聖書に登場する人物のほとんどは、華々しい活躍を経て、山のてっぺんにいる人たちではなく、それぞれ少なくとも一度は転がりおちて、深くて暗い場所を知っている人たちです。  なぜでしょう。それは、イエス・キリストの十字架が頑張って登りつめた山のてっぺんにあるのではなく、私たちが普段行きたがらないような一番低いところに静かにそびえたっていることを示すためです。

 私は孤独の焦りと失意の中で、あの日、たまたま座った公園のブランコで、十字架のイエス・キリストに再び出会ったのです。あの時、今にも崩れ落ちそうなグラグラと揺れる心をそっと支えてくれたのは、「あなたは今、わたしの隣にいる」という主のかすかな御声でした。

「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。(人間として耐えられないようなものはなかったはずです。)神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道
(逃れる道)も備えていてくださいます。」Iコリント10:13

それまでの私はこの節の前半ばかりに目を留めていました。今目の前にある試練から絶対に逃げてはならない。乗り越えられるハードルしか神様は用意されていないのだ、と読み取っていたのです。きっと努力して登り切った山のてっぺんにある十字架をイメージしていたのでしょうね。でも、そういう信仰だときっと息切れしてもたなかったことでしょう。

 しかし、後半部分で神様は「逃れる道」もそっと差し出してくださっているのだと知った時に、ああ、主は私が逃げたその先にも道を作られ、共に歩んでくださる真実なお方だとわかったのです。そうして私はもう一度希望とともに立ち上がる力を得ました。それだけではなく、今、私は自分と同じような挫折を通っただれかの隣に座ることができる恵みをも得たのです。結局のところ、人生のどのルートを選択したとしてもイエス様が「大丈夫、全部結果オーライ(益)になっていくよ。」と導いてくださるのですね。

 この中には、「この受験に失敗したら、もう人生終わりだ」というプレッシャーの中で生きている人や、「こんなに辛い家庭で過ごして、この先も幸せになれないかもしれない」と家庭の痛みを抱えている人、「大好きな人に失恋して、もうこの先、恋愛できないかもしれない」と失意の中にいる人、「なかなか友達ができないから、この先もずっと一人かもしれない」などという不安の中、逃げ出したくなるような思いで過ごしている人もいるかもしれません。

 究極のところ、本当に苦しかったら、逃げてもだいじょうぶだよ、と私は声をかけます。ただし、“死ぬこと”以外です。それ以外は、逃げて、別の道を辿ってもいいんです。

 それで、救いを取り上げるような神様ではありません。むしろ、全部失ってはじめて、色々な誘惑という目の覆いが取り除かれ、イエス様がくっきり見えるようになるでしょうから、神様は「ここが勝負」と私たちを待っていてくださるでしょう。

 私たちに注がれる神様の恵みと憐れみというものは、どのような状況の中にもあるものです。ここから逃げなければならない時も、あるいはここにとどまらなくてはならない時も、そしていつ始動したらよいのかがわからない時も。緊急事態として対応しなければならない時も、入念に準備して進まなければならない時も。どのような時にも、自分一人がこの出来事を担っているのではない、神様が私たちの前に、またすぐ隣に、そして後ろにいて支えてくださっているのだ、と知ることは、私たちにとってどれほどの励ましでしょうか。神様をより頼み、支えとして生きることは現実逃避でも責任放棄でもありません。私たちの知識や裁量を超えて全てを治められるお方に信頼して歩むことによって、私たちは自分に与えられた責任に落ち着いて向き合うことができるのです。

「私はどこへ行けるでしょう。あなたの御霊から離れて。

どこへ逃げられるでしょう。あなたの御前を離れて。

たとえ 私が天に上っても そこにあなたはおられ

私がよみに床を設けても そこにあなたはおられます。

私が暁の翼を駆って 海の果てに住んでも

そこでも あなたの御手が私を導き

たとえ私が「おお闇よ 私をおおえ。

私の周りの光よ 夜となれ」と言っても

あなたにとっては闇も暗くなく 夜は昼のように明るいのです。

あなたこそ、私の内臓を造り 母の胎の内で私を組み立てられた方です。

・・・・

神よ、私を探り 私の心を知ってください。

私を調べ 私の思い煩いを知ってください

私のうちに 傷のついた道があるかないかを見て

私をとこしえの道に導いてください。」

詩篇139編7―13、23−24

 逃げて、探して、そして見出されて・・・「わたしはあなたを離れない」と言われた神様の深い愛をよりいっそう体験する夏となりますように、祝福をお祈りしています。

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