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「美しく、強く、しなやかに-イスラエルの女性たち-」 ②

サラ

ラウジー満世

中央聖書神学校教師

サクラ・キリスト伝道所牧師

 前回のエステルに続いて、今回はアブラハムの妻、「サラ」に注目しましょう。サラ(当時はサライ)は創世記12章で突然神から呼ばれて生まれ故郷を離れたアブラハム(当時はアブラム)と共に旅立ち、夫の信仰の試練を自分自身の試練として生きた女性です。サラの経験は夫の歩みに寄り添う女性の経験として書かれています。そんな彼女の信仰に目を向けていきましょう。

 夫と共に故郷を出て以来、サラは様々な危険を乗り越えましたが、心にいつも引っかかっていたのは神からアブラハムへの「子を与える」という約束だったでしょう。子を産むことが出来る年齢を越えてしまっていることを自覚して焦り、約束の実現が無理だと知っていたサラは、考えた末に女奴隷ハガルを通してアブラハムの子を得ようと決意しました。その時、サラは「主はわたしに子供を授けてくださいません。」(創世記16:2)と言います。サラの悲しみと、諦め、そして族長の妻として子を産まなければならないという苦悩が表れた言葉であり、行動でした。アブラハムにとって父となる約束を信じることが大変であったように、サラにとっても母となることは大きな苦悩とプレッシャーだったのです。無事にハガルを通して子を得ますが、後にはハガルとの関係に悩み、苦しみます。ある時、神は夫に再び語り掛け、妻サラを通して男の子を与える、と言われました(創世記17:16)。重圧から少し解放されていたサラにとっては更なる苦悩の始まりでした。

アブラハムとサラ

 サラが自分を通して子を与えるという神の約束に対してより分かりやすく気持ちを表している場面が創世記18章にあります。アブラハムに現れた主の使いが、一年以内にサラに子が生まれると言った時、すでに年老いて子を持つことが出来るはずがないサラはひそかに笑っています(創世記18:12)。ヘブライ語では「彼女は彼女の内で笑った」と書かれているのですが、決して人に悟られないように、でも「今さら、子を産むなどあるはずがない」と自嘲する思いがこみ上げて、隠れて冷笑し、嘲笑っているのです。本心と不信仰を指摘されたサラは恐ろしくなって否定しますが、神は心の内をご存知でした。

 このような苦しみと不信仰を抱えている夫婦には、他にも甥、ロトの家族状況などの様々な心配がありました。しかしそれでも、神の約束は確実に果たされていました。創世記21:1に「主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。」とあるとおりです。アブラハム100歳、サラ90歳の時に、人には不可能なことを神が約束の通りに行ってくださいました。故郷を離れて以来、25年間の信仰の戦いに勝利が与えられた瞬間でした。

 夫と共に神に従う生活の中で、サラの信仰は常に試されてきました。背負ってきたプレッシャーの重さを理解してくれる人々がそばにいたわけではないでしょう。信仰の歩みは時に孤独です。焦りから自力での解決を急いだあまり、かえって不要な問題を引き起こして人々を苦しみに巻き込んでしまったこともありました。神に対しても正直に打ち明けられない苦しみを抱え、それを神に指摘されて恐れたこともありました。多くの苦悩と困難の末に、ようやく神の約束が実現したのです。

 イサクが生まれて八日目の割礼の時にサラはついに口を開いきました。『「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を/共にしてくれるでしょう。」(創世記21:6)』25年間に及ぶ信仰の苦悩を乗り越えて、私に笑いをお与えになった!と叫んだのです。「イサク」とはヘブライ語で「彼は笑う」という意味です。この名はアブラハムが99歳の時に主が現れてサラを通して子供を与えると伝えた時に彼がひそかに笑って不信仰を示したことに対して、生まれてくる子に「イサク」と名付けよと言われた名前でした(創世記17章)。夫婦それぞれにとって愛息子「イサク」の名は、実際に子を得るまでの信仰の戦いの期間、待つ苦しみを思い出させる名前でした。しかしついに神の約束が実現した時、二人にとって、特にサラにとって「笑い」は心からあふれる喜びの笑いに変えられたのでした。

 長い長い信仰の忍耐の期間を過ごしました。人間的には母になることは不可能なことをよく分かっていました。それでも神は不可能な約束を語り続けられました。現実と信仰のはざまで苦しみ続けながらも、神の約束から逃れることもできなかったサラに、神はその苦悩の末に心から湧き上がる喜びに満たす神の御業を表す「イサク」を与えられました。

 族長の妻として、主役としては語られることのないサラでした。しかし夫に寄り添い、自らの信仰の試練を受け止め続けたサラにも神は目を注いで「イサク」を与えられたのです。目立たない女性、陰でそっと支え続ける女性にも神は目を注ぎ、祝福と笑いを与えて下さいます。誰一人、神に忘れられることはないのです。サラの生涯を通して改めてこのことに気付きます。目を留めて下さる神様の恵みを数えましょう。

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