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「美しく、強く、しなやかに-イスラエルの女性たち-」 ④

ヨブの妻は悪妻か?

ラウジー満世

中央聖書神学校教師

サクラ・キリスト伝道所牧師

 古来、ヨブの妻は聖書に登場する女性の中でも悪名高い存在です。早くも3世紀から、彼女は「悪魔の助手」とまで言われてきました。ヨブ記2:9で彼女は大きな苦しみに襲われているヨブに向かって「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい。」(口語訳)と、かなり衝撃的な言葉を発しています。確かにこんなひどいことを言う妻は恐ろしい、残酷だ、と嫌ってしまいます。しかし注意深くヨブ記を読んでみると、事はそれほど単純ではありません。

 ヨブの妻は最後までヨブと共に生きています。ヨブが苦しみ抜いた後で神から正しさを認められたとき、神は彼を元の境遇に戻し、財産を二倍にし、再び子供たちを与えられました。妻は試練を通してヨブに寄り添い続けていたのです。

 愛する夫であり最も身近な家族がどん底で苦しむ時に寄り添って支え続けるのは簡単なことではありません。心からの愛と慈しみと尊敬がなければ逃げ出してしまうでしょう。むしろ深く愛するからこそ苦しむ姿を見ることが辛いのです。しかしヨブが財産も地位も友人も子供も健康さえも失って信仰の危機に立っていた時に、妻は寄り添い続けたのです。本当に彼女が「悪妻」なのでしょうか?あの「神をのろって死になさい。」という言葉の真意は何だったのでしょうか?

 日本語に限らず、英語でも「神を呪って」と訳されていますが、旧約聖書が書かれたヘブライ語では「バーラク」と書かれています。これは本来「祝福する・賛美する」という言葉です。つまり文字通り訳せば、妻はヨブに「神を祝福して死になさい」と語ったとも理解できます。

 妻はヨブに突然次々と降りかかった災難を見ていました。すべてを失って苦しみ、皮膚病まで患い、陶片で体をかきむしりながら必死に耐え、信仰の危機にある夫を見ていました。そんな極限状況でもヨブは高潔―全き者―であり続けようとしています。妻はヨブを深く理解していました。どんな時でも信仰に固く立つことを貫く高潔さゆえに苦しんでいると分かっていたのです。

 夫の苦しみを見守ることは、夫を深く愛するがゆえに妻にはつらいことでした。何とか夫が苦しみから解放されてほしいと願わずにはいられなかったのです。妻はヨブが神を祝福し、賛美し続けることを決してやめないと分かっていたので、いっそのこと「神を讃え抜いて死になさい」と言ったのです。ただし彼女は神を讃え抜いても、神から死は与えられないと知っていますから、心の中には対立する思いがぶつかり合っていました。先ほど述べたように本来「祝福する、讃える」というバーラクは正反対の「呪う」という意味まで含めることが出来る単語です。夫を愛するがゆえに複雑な苦しみを抱える妻として、彼女はいっそのこと神を呪えば苦しみが終わるのに…という葛藤を抱えながら、はっきりと「呪う」(アーラル)という言葉を使う代わりにバーラクと言ったのです。バーラク=祝福する、と素直に受け止められる言葉を使いながら、その真意は神を呪えば死んで今の苦しみから解放されるかもしれないよ、という愛ゆえの妻の葛藤と、自身が高潔であろうと頑張っていることを理解してくれている妻の思いをくみ取ったヨブは「愚かな人のように聞こえる言葉をいうものではないよ」と軽くユーモアも込めてたしなめるのです。

 ヨブの妻もヨブと共に試練に耐えていたのです。もちろん夫婦のこの会話は長い長いヨブの苦しみの最初の場面で交わされています。この後で友人たちなどが来てヨブを責め、罪があると決めつけて悔い改めを迫ります。今やヨブは神から与えられたすべての祝福、愛する子供たちも財産も失っただけではなく、社会で尊敬されていたのは過去の名誉となり、人々はヨブを避けて寄り付きません。そんな中、ヨブはついに必死で求め続けたように、神と直接話します。そのようなみじめな状況が続くヨブのそばに、妻はずっと寄り添っていました。だからこそ、最後の最後で神様はヨブの友人たちの罪を指摘した時にも、妻には一切罪を指摘なさらなかったのです。彼女はヨブにとりなしてもらうよう求められていないのです。

 ヨブの妻は悪妻と古くから誤解されてきました。その理由はヨブ記が書かれたヘブル語の巧みな表現にあります。妻の複雑な胸中を表すために最大限の工夫をしながら、その言語で読んで深く味わって初めて「神を祝福・賛美しなさい」と「神を呪いなさい」の味わい深さが分かるように注意深く書かれているからです。ヘブライ語以外の言語ではなかなか伝えきれない細やかな心の動きが表現されているのです。

 高潔な信仰者の妻であるがゆえの葛藤を味わったヨブの妻は多くの誤解を受けてきました。実像はヨブのよき理解者であり、決して逃げ出さない心強い支え手でした。人々から誤解されることがあっても、神は彼女の真実な姿を見て下さっていました。

 信仰を貫いて言い訳せずに生きる時、私たちも人からは誤解されることがあるかもしれません。しかし神様はその信仰を見ておられます。また、そっと支える女性が変わらず理解し信頼してくれることによって信仰に固く立つことが出来ている人もいるでしょう。どんなときにも静かに、しかし凛として神を愛し、人を愛し、神が与えて下さった愛する人々を支えていく女性・信仰者でありたいですね。自分の能力に頼っては不可能ですが、神様に信頼して歩むならば私たちもそのように導かれると信じます。

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