ラハブ―神を信じて用いられた知恵ある行動派
ラウジー満世
中央聖書神学校教師
サクラ・キリスト伝道所牧師
荒れ野を40年間旅してきた後に、新しいリーダーであるヨシュアのもとで約束の地カナンに入るためにイスラエルは多くの戦いを経験します。その最初の戦いではその土地に住む遊女が大きな役割を果たしています。彼女はエリコの町の片隅で、人々から後ろ指をさされる生活を送っていたのです。私たちがこの時代に生きたイスラエルの民であったなら、まさか神が外国人でしかも罪深い生活をしているこのような人を用いると期待できたでしょうか。しかしエリコとの戦いで重要な働きをしたのが遊女ラハブです。彼女は後に新約聖書では信仰の偉人としてごくわずかな女性と共にその名が挙げられているのです。
ラハブはエリコの町の城壁の壁面の内側に住んでいました。エリコは約束の地カナンに入って最初にイスラエルが戦った町でした。城壁の回りを行進し、最後に皆で鬨の声を上げると壁が崩れたというあの印象的な大勝利を思い起こされるでしょう(ヨシュア記6章)。約束の地に入るための最初の町を攻め落とすことは、イスラエルの人々の信仰を強めるためには大切なことでした。この重要な戦いに先立ってヨシュアが送った二人の斥候がエリコで出会ったのが遊女ラハブでした。
正直なところ、イスラエル人にとってラハブは神の選びの外に居る人ですし、さらに律法よれば罪深い生活をしているのです。ですからこのような人との接触は避けようとするでしょう。神の律法を固く守って、神に喜ばれるきよい生活を続けようとする人々は、なおさら避けようとするでしょう。しかし神の約束実現のためにラハブは大きな役割を果たします。
イスラエルの二人の斥候が遊女の家に入り、泊まりました。ラハブはこの二人がエリコの王が遣わした追手に追われる者であると知りながらも、迷いなく彼らをかくまい、したたかにも遊女としての立場を巧みにほのめかしながら役人を煙に巻いてしまいます。ああ、確かに二人来たけれども、私の客ですし、素性も行先も知りません、もう出て行きましたよ、、、、という具合に。自分の客だとほのめかすときに大胆にも性的な関係のために訪れたのだと理解できる、ぎりぎりの言葉を使って二人を守ったのです。何と大胆で機転の利く女性でしょうか。
追手を追い払ってからラハブはかくまっていた二人を逃がします。なぜエリコの住民なのに自分の町を襲う敵を助けたのでしょうか。ラハブはイスラエルの神こそ天地の神であると認めていたのです(6:11)。エリコの住民はエジプトの奴隷に過ぎなかったイスラエルがその神の不思議な力によって干上がった海を渡って生き延びたことや二人の王を滅ぼしてしまったとことなどを聞いていました。彼らはイスラエルが普通ではない力で守られて荒れ野を渡ってエリコに迫っていると聞いて怖がっていました。もちろんラハブも町の住民と同じようにこれらの出来事について聞いていました。しかし彼女は震えおののいてはいませんでした。ラハブは主がどのように敵を征服してイスラエルを守ったかを聞いて神を認めたのです。迫り来る災禍を理解して今度は自分が滅ぼされると怖がるのではなく、背後におられる神の力を認め、イスラエルの神こそが天地の神だと受け入れることが出来たのです。それは彼女が事実の報告を聞き、本質を見極めるために考え、悟る知恵を働かせたからでした。
ラハブは知恵をもって神を認めただけではなく、親切と真心をもって斥候を助ける行動を起こしました。信仰を行動に移したのです。自国の追手に嘘をついて自分の命を危険にさらしてまで親切を示したというのです。彼女の「親切」は旧約聖書が書かれたヘブル語では「ヘセド」という言葉です。これは真心、誠実、忠実とも訳されます。単に人と人との間の情に流されたおせっかいではないのです。ヘセドは神への忠実であり、神への信頼に支えられて人間関係の行動の中で実践されていく誠実でもあります。ラハブはイスラエルの神に忠実に行動したのです。ところで、「ヘセド」はルツ記でも数は多くないのですが要所で使われている言葉でもあります。
さて、ラハブに戻りましょう。ラハブはイスラエルの神を認め、神への忠実を示してイスラエル人を助けました。さらにラハブの家族の命を救ってほしいと求めるのです。ラハブは大切な家族をも救うことのできる神を見分け、救いを求めたのです。救いを求めて行動したのです。ラハブは行動をもって信仰を示しているともいえるのではないでしょうか。
ラハブは自分一人のための命乞いではなく、家族を愛し、家族を救うために行動しました。社会的には後ろ指をさされる仕事をしていましたが、それも家族の経済を支える為であったかもしれません。J.F.D.クリーチという聖書を深く学んでいる人は、ラハブの家にあった赤いひもは布を織る素材の繊維であり、ラハブは斥候を隠した亜麻の束とこのひもとを使って服を作る仕事をしながら家族を支えていたと考えています[1]。まさにラハブは神を認める知恵を持ち、家族の世話をするために力を尽くした賢い女性だったのです。
ラハブを語る時、しばしば「遊女ラハブ」と職業を伴って紹介されます。人々は遊女と聞くと神の恵みの内側に入れられることのない人と判断し、蔑み、断罪し、距離を取ります。しかしラハブはイスラエルの神の御業を聞いて、その力を認め、天地の神を認める知恵と洞察力を持った女性でした。そして家族を支えるために仕事をした有能な女性でした。さらに自分の命をも危険にさらしながら神へのヘセドのゆえに行動を起こした大胆な女性でした。
人は社会的地位や職業に惑わされます。しかし神は心の内にある知恵とヘセドを見られ、行動を起こす者を用いて主の業を進められます。さらにイスラエルから見れば異邦人の罪びとをもただ彼女の信仰のゆえに主イエスの系図に加え、新約時代の信徒を励ます信仰の証人たちの一人としてその名を記されたのです(ヘブライ人への手紙11:30)。
日々の出来事の中から神の御業を見分け、力ある神を真の神として認め続け、大胆に信仰をあらわす行動をとれる素晴らしい女性ラハブの姿を聖書は私たちに伝えてくれています。私たちも性別や国籍や社会的地位によって自分自身に対しても他の人々に対しても偏見を持たない人でありたいですね。そしてラハブのように霊的洞察力と神からの知恵によって主を信頼し、家族をはじめ周りの人々を喜んで支え、神から生かされている一人の人として凛として主を愛して生きていきたいですね。
[1] クリーチ,ジェローム・F.D.『現代聖書注解 ヨシュア記』、長谷川忠幸 訳、日本基督教団出版局、2006、85頁。
感想・コメントはこちらに♪