嘉手納アッセンブリー教会 神山 美由記
「教会が溜まり場だった」
私が中学生の頃、教会は放課後の溜まり場になっていました。
「学校が終わったら教会集合!」誰かがそう呼びかけた訳でもないのに、自然とお家とは反対方向の教会へと足が向くのです。平日の夕方、教会で集会があった訳ではないので、特に何をするわけでもありません。男子は楽器を触ったり、昼寝をしたり。女子はコンビニでお菓子を買って母子室(女子は小さく、隔離されたような部屋が大好き!)でひたすらおしゃべり。あっという間に夕方になり、6時を過ぎると2階の牧師館から「そろそろ帰りなさいよ?」と、優しくもどこか緊張感のある促し(笑)があり、それでも玄関先で話し出したら止まらず結局6時半ごろにようやく解散という毎日でした。
「中高生ノートとSNS」
そんな私たちを見て、当時の日曜学校の先生が「中高生ノート」を作って教会に置いてくれました。これはいわゆる、カフェやレストランなどで見かける「お客さまノート」のようなものです。平日教会に立ち寄った学生が日記のような形式で日々感じたことを自由に記すことができるように、ということでした。最初は何を書こうかと戸惑った私たちも、次第にどんどん書き込むように…。内容は大好きな歌の歌詞や、学校での出来事、プリクラを貼ってみたりと、教会に行った際には、そのノートを見つけ、みんなに報告したいことを書き残すことが楽しみになりました。
今でこそアナログなやりとりに思えますが、当時はまだ携帯電話も完全に普及していない頃だったので、思いの吐き出し口がない学生にとってはもってこいのバズりアイテムに発展!たぶん、この中高生ノートが私たちにとってSNSの前身だったのかもしれません(笑)
そもそも、当時の中高生(私たち)にとって教会がなぜ放課後の居場所となったのでしょう。仲の良い友達がいたから、とか、好きな異性がいたから、という単純な理由もあったかもしれませんが、それだけではなく、家や学校に居場所がないと感じるメンバーにとっての教会という場所は、親や先生からの干渉から一時的に解放され、たわいもない話題でほっと心を落ち着かせることのできる場所だったからかもしれません。
現在はTwitterやインスタグラム等のSNSで簡単にすばやく日常をシェア出来るようになりました。しかしこれが案外やっかいに感じることも。
友達が自分以外の誰かと楽しそうにしている写真が載っていると仲間はずれにされているのではないかと疎外感を感じたり、相手の名前を伏せて批判的な内容が書き込まれていたりすると「もしかしてこれって自分のこと?」と気になって夜もおちおち眠れない中高生たちの話を聞きます。
いや~、便利なようで、実際は色々見える(聞こえる)のも生きづらいよね。
「本アカとサブアカ」
インスタグラムなどは本アカウント(通称:本アカ)とサブアカウント(通称:サブアカ)で使い分けている人も多いようです。私もインスタグラムでは絶対に誰にもバレないようなアカウント名で料理のサブアカを作って楽しんでいます。ちなみに夫もペット(フトアゴヒゲトカゲ)やラーメンなどのサブアカを持っていました。(結婚してから知って驚き!!)
趣味や決まったテーマに投稿を絞ったサブアカ(サブ垢と表記されることも)は撮った写真をすぐにアップしてどんどん投稿が増えていく一方で、本アカは撮った写真を家に帰ってから念入りに加工し、ちゃんと映えているかチェックした上でようやく公開。それを見る側にしては、相手にとっての最高の瞬間だったりするので、羨ましく感じたり、嫉妬にかられることもあるでしょう・・・。
オシャレな服や異性とのデート投稿、高価なプレゼント、何度も何度もスクロールして、どこのお店のどんなものか、必死にチェックするも、実際の自分の生活とかけ離れている現実を突きつけられているようで落ち込む人も多いと聞きます。
「ストーリーおばけ」
24時間で投稿が消えるストーリーズ(通称:ストーリー)という機能の駆使していた大学生が「ウチ、ストーリーおばけやねん」と言っていたのが印象的でした。ストーリーおばけというのはストーリーズ機能のヘビーユーザーだという意味。(なんだそれ?と思いましたが。その子独自の表現です(笑))
確かに学生さんの間では圧倒的に普通に投稿するよりもストーリーで投稿する人の方が多いという印象。ストーリーだと24時間後には投稿が自動的に消えてくれるので、連投しても相手にしつこい印象は残りません。なるほど、現代っ子のみなさんは“空気を読む世界”の中でうまく生きる術を大人以上に心得ているのかも、と思わず私も感心。なんというか、これも相手に対する配慮の一種なんですよね。
「ただ自分の近況をほんのちょっと知って欲しい。けどそこまで相手に立ち入ってほしくない。」そんな気持ちがこちらにも伝わってきます。
「神様は知っていてくださる」
みなさんが投稿の文字を打ち込んでいるときも、その後の投稿のリアクションが気になっているときも、あなたのその想いを知っていてくださる神様を思い起こして欲しいと思います。
自分が相手にどう思われているのか、私たちは考え出すとたちまち不安になります。そんな時は、神様があなたをどう思ってくださっているかに目を向けて欲しいのです。
「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」ピリピ人への手紙4:6、7
SNSのことでしんどくなったら、この御言葉に戻ってきて欲しいなと思います。
誰に知ってもらわなくても、みなさんのことに興味津々な神様に全部話して知っていただきましょう。普段SNSに縛られているその時間を神様に思いを注ぐ時間に変えてみるのはどうですか。
人の目線が気になって、揺れ動く心、不安になる心、恐れが生じる心を、神様の平安でやさしく守ってくださると御言葉は約束してくれます。
私たちにとって、無くてはならないのはスマホでも、SNSでもなく、神様との関係なのです。なぜなら神様はwi-fiなしでも、いつでも、どこでも、私たちにつながってくださいますから。
映えない自分でも大丈夫!何かがうまくいかなくて悔しい日も、頑張れない日も、心の中の一番しんどいところ、ダサくてカッコ悪いところを神様に聞いていただきましょう。
神様があなたに開いて欲しいと願っておられる心の扉は、実はその部分ですから。
その部分を知っておられるお方が、今日も共に歩んでくださる。新学期でどこか緊張し、張り詰めていた心を柔らかくしてくださる。諦めかけていたあのことにもう一度向き合う勇気を与えてくださる。
そんなふうに神様と心通わせていく時に、私たちは失いかけていた自分自身を取り戻し、神様の愛の中で健全な自尊心が育まれていくのです。
そのままのあなたに「超いいね!」のメッセージを送り続けてくださる神様の愛に応答して、ジメジメした梅雨の時期を乗り切っていきましょうね!
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