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信仰エッセイ「聖書の息遣い」①

筆者から一言

北野 耕一
きたの こういち  Kitano Koichi

日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団 巡回教師
前・中央聖書神学校校長



 今月から「信仰エッセイ」を書くように依頼されました。教団HPのAG Fellowshipに掲載するとのことです。エッセイですから肩の力を抜いてまとめることが出来るので、お引き受けいたしました。

「日本語」(Ⅰ)

さて、「古池や蛙飛び込む水の音」、この一句を知らない日本人は多分誰もいないでしょう。江戸幕府時代の俳諧師、松尾芭蕉の代表作です。この句は今から335年前に芭蕉庵で催された「蛙」の発句会で詠まれたのだそうです。随分昔の作だとはいえ、この句には、ずぶの素人の私を、近代都市の喧騒から解放し、しばしの「静寂」の空間に連れ込む不思議な吸引力があります。

 暗示的であいまい語が多い日本語にくらべ、論理性を基軸とし、直截的な特性を持つ英語に訳そうとすると、「古池や」、これには冠詞を付けた方がいいかどうか、「蛙」は単数なのか複数なのか、「飛び込む」は進行形なのか、現在形、それとも完了形なのかを問わなければなりません。ところが、文法を入り口に訳し始めると俳句の翻訳は身も蓋もない語句の羅列になってしまいます。それでも翻訳は必要でしょう。二つばかり例にとってみましょう。“The old mere! A frog jumping in. The sound of water.” これは正岡子規が訳した英文です。一方、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は “Old pond. Frogs jumped in. Sound of water.”と訳しました。ハーンの訳では複数の蛙が古池に飛び込んだことになっています。そうすると「水の音」も変わってくるはずです。さすがに正岡子規は俳人であるだけに、「古池に」ではなく「古池や」の「や」を見逃したくなかったのでしょうか、“!”でそれを表したようです。俳句で言う「切れ字」といい、重要な役割をもっているそうです。英語には「古池や」の「や」を表現するすべがないのでしょう。このように、日本語には日本語にしかない微妙なニュアンスがあるのです。少々言い過ぎかもしれませんが、日本語には、インド・ヨーロッパ語族には立ち入れない “境地”があるように思えてなりません。

 あるとき、私はそういう思いを裏付けるような経験をしました。それは1985年の夏のことです。私はシカゴ郊外にあるホイートン大学大学院で「神学の文脈化」(Contextualization of Theology) の集中講座を受講していました。授業を大ざっぱに要約すると、「宣教がそうであるように、神学もそれぞれの地域、国々、民族の文化に寄り添った表現であるべきだ」という内容です。その頃欧米ではそのテーマについて、組織神学者、聖書神学者が宣教学者と熱い論戦を交えていた時期でした。そのクラスの殆どが白人の学生で、私と中国系の学生2人だけがアジア人でした。授業の途中突然教授が私たちの方を向いて「我々は長年ギリシャ哲学を基調とした思考枠組みの中で神学を構築してきた。今その転換期が来ているのだ。あなた方は長い歴史の中で成熟してきた東洋的な発想力を生まれながらにして持っているはずだ。それは神からの授かりものだ。タラントを地に埋めたままにしていいはずはない。西欧型のコピーではなく、東洋的な聖書の解き明かしに、説教の構築に、宣教の手段に用いる責任があるのではないか。」と熱く問いかけられました。その時感じた心の揺さぶりを今も失っていません。おかしなことにその感動のさなか、神学とは何の脈絡もない芭蕉のあの句が忽然と浮かび上がってきたのです。「古池に」と「古池や」の違いを何の苦も無く悟る東洋的な“境地”を私たち日本語族は共有しているのだ、と気付かされたのです。そして、それを聖書に接する私たちの取り組み方に適用出来ないものだろうか問い続けてきました。

 アブラハムがイサクをモリヤの山で全焼のいけにえとして捧げる史実が創世記に記載されています。しかし文章自体は、事件記事のように感情表現が皆無です。淡々とした描写から信仰の過酷な試練に放り込まれた彼らの心の葛藤を、私たちはどれほど深く感じ取ることができるでしょうか。イメージ化が得意な私たちにはある程度それが可能でしょう。しかし、私たちはこの物語の結末をあらかじめ知った上で、父と子と若者達と共に山に向かって旅を始めます。アブラハムの信仰と、イサクの従順の真髄に触れたいと願うなら、私たちにはもう一歩踏み込んでしなければならない事があります。つまり「アドナイ・イルエ」のフィナーレを記憶から消去して、22章を読み直すという不可能に近い作業です。言い換えれば22章の後半を先読みしてはならないのです。モリヤの山に向かって歩むアブラハムの思いにあるフィナーレは、あくまでも愛するひとり子の死です。しかも神に命じられて、父が子を殺すという残酷な死です。そして祭壇に縛ったイサクに刃を振り下ろすギリギリの瞬間まで、「信仰によって」(ヘブル11:17)彼は神の命令に従いました。そこを通ったからこそ与えられた「アドナイ・イルエ」です。私はその”境地“に少しでも触れたいのです。だが、ギリギリまで追い詰められる信仰の試練に遭わなければ、その”境地”に入ることが許されないのかもしれません。

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