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信仰エッセイ「聖書の息遣い」⑧

「私のベテル」


信仰エッセイ「聖書の息遣い」⑧
by 北野 耕一

 少々歪んだ性格でも主に祝福された人物の事例が聖書に記録されています。旧約聖書のヤコブです。兄エサウとは双子でした。兄のかかとをつかんで出生したという、産声を上げる時から曰く付きの人生であったようです。新聖書辞典によるとヤコブという名前は、「かかと」と同じ語源で、しかも「だます」という意味も含まれているそうです。そんなヤコブのことを「穏やかな人」(創25:27)と創世記は評しています。とにかくつかみ所のないヤコブだったようです。

 最初の「だまし」には、空腹に克てなかったエサウにも、少しばかり非があったようですが、ヤコブは長子の権利を上手く手にしました。二度目は、母親リベカの狡猾な謀略に「ノー」と言えず、ヤコブはそれに乗ってしまったのでした。策を講じて兄エサウになりすまし、視力の弱った父につけ込んで、やり直しの利かない聖なる祝福を自分のものにしました。だまされた当のエサウは「あいつの名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけて。私の長子の権利を奪い取り、今また、私への祝福を奪い取った」(創27:36)と怒りを爆発させています。それがヤコブに対する殺意にまでエスカレートするのです。それにしても、無垢な嬰児にそのような名を付けた親は何と罪なことをしたことでしょう。

 しかし、捻れた性格の持ち主ヤコブは、数十年後父親のことば通りの祝福を手にしています。彼は過去の自分の所業を思い出しながら、主なる神にこのように祈っています。

「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。私に『あなたの地、あなたの生まれた地に帰れ。わたしはあなたを幸せにする』と言われた主よ。私は、あなたがこのしもべに与えてくださった、すべての恵みとまことを受けるに値しない者です。私は一本の杖しか持たないで、このヨルダン川を渡りましたが、今は、二つの宿営を持つまでになりました」(創32:9,10)。

 「だまし屋」であったヤコブは、ベテルで神と出会った後、苦労を重ねながら、財を築き、子宝に恵まれました。時が来て、故郷に帰る途中、「ヤボクの渡し」で主なる神によって、イスラエルと改名したのです。それが民族名に受け継がれ、国名にもなりました。神ご自身も、「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出3.6、マタ22:32)とヤコブを父祖たちの名に加えています。

 このようにうって変わった人物になったきっかけは何だったのでしょう。それはベテルでの聖なる体験だった事は否めません。家族内の反目と諍い(いさかい)の元凶が自分であることをどれほど自覚・反省していたかどうか不明ですが、いずれにせよエサウの殺意を知った母親の指示に従い、ヤコブは家を離れざるを得なくなりました。エサウの妻の件で頭を痛めていたイサクも、親族から妻を娶るようにヤコブに命じ、祝福して彼を送りだしています。こうして彼の一人旅が始まりました。

 指図してくれる者も、競争相手もいない孤独の歩みの中で、夢だったとは言え、主なる神と直接出会う貴重な体験をしたのです。そしてはじめて自分の口から信仰告白をしました。枕にしていた石を立てて旅には欠かせない油を惜しげもなく注ぎ、さらにはじめて神と契約を結んでいます。ここベテルで、過去のヤコブが葬られ、新生したといって良いのではないでしょうか。時が過ぎ、やがて神に命じられ、「二つの宿営」と大勢の家族を引き連れ、故郷に戻ることになりました。それでも彼はベテルでの神経験を風化させることなく、再び同じ場所に戻り、石の柱ではなく、立派な祭壇を築いて主を礼拝しています。彼はそこをエル・ベテル(ベテルの神)と名付けました。(創35:3-7)

 私にもベテルの経験があります。ヤコブのベテルとは比較にならない極々小さな「ベテル経験」ですが、私にとってはかけがえのない神との出合いでした。神学生時代の出来事です。ダビデとヨナタンと人がうらやむほど、無二の親友であった萬代恒雄兄(1994年5月4日召天)と入学許可証(図-1)を手に、意気揚々中央聖書学校の門をくぐったのが1952年でした。

萬代恒雄師 と北野耕一師
(図-1) 入学許可書

 彼は西灘基督教会、私は東灘神愛基督教会(現御影神愛キリスト教会)出身で、互いに示し合わせたように、親の許可も取らず、「勉強などしている暇はない」と、神戸大学を中途退学したのです。彼は法学部で一年先輩、私は教育学部の二年生でした。当時の教会の霊的雰囲気は、明日主キリストが再臨されるかも、という切迫感が張り詰めていました。神の濃厚なご臨在に触れ、聖霊の御業が次々なされるのを目撃し、自分も不思議な体験をしていました。救霊の炎に燃やされて入学したものの、テキストブックも皆無に近い教室での授業は、学習意欲をかき消すばかりでした。クラスと作業の後、私たち二人は、時間を見つけては救霊戦略を錬ることに没頭していました。戦後、破竹の勢いで信者を獲得していた創価学会の「折伏」のやり方を参考にしようと、ある会合に二人で潜り込み、危うく袋叩きに会いそうになったこと、三脚に主イエスの洗足の絵を掛け、靴磨きの道具を持って道端にい座り込み個人伝道の客を待ったり(空振りでした)、原爆の悲惨な写真の前で,「世の終わりは近い」と叫んだり、あの手この手を使って伝道しようと試みたものです。思い通りになったのはごく僅かでした。当時、上野駅近辺のあちこちに占い業者がたむろし、大勢の客を引き付けているのをみて、彼らとそっくりの道具立てをしたことがありました。最初、私が「さくら」になり、客が来た時には、萬代神学生がおもむろに聖書を開いて、救いに導くという手順でした。ところが準備万端、校門を出ようとしたところ弓山校長に呼び止められ、「伝道は正攻法でするもんじゃ!」と一喝されたのが、ブラックリストに載るそもそもの第一歩だったようです。

 その頃、萬代神学生は宣教師と小岩開拓(現小岩栄光キリスト教会)を始めていました。夜遅く、しばしばたたき起こされ、「耕ちゃん。今日は○○人救われた」、「○○人受霊した」、「こんな癒しがあった」と聞かされるごとに、何だか自分が取り残されたような気分になっていました。ところがある日、校長室に呼ばれ、「大人の礼拝をチャペルで始めてみないか」と持ちかけられたのです。その一言に水を得た魚のように飛び跳ねた気分になったのを憶えています。礼拝会をする限り、人びとに案内をするための教会名がなければなりません。「中央聖書教会にしてもいいですか」と教団の総理でもある校長にかけあったところ、「いいじゃろう」ということで、教団理事会での正式の承認を得ることなく、待ってましたと、全力投球で開拓を始めました。お墨付きをいただいた以上、学びはそっちのけで、神学生何人かを引っ張りだし、「ガリ版刷り」のチラシの作成、路傍伝道は勿論、近所の空き地で天幕伝道、そこで救われた方々の家々で家庭集会と、これほど生きがいを感じたことはありませんでした。短い期間に神学校のチャペルがいっぱいになりました。そうした状況の中で、次第に私はパリサイ人のように、自分を見失ってしまったのです。いや、神を見失ってしまったというべきです。主はそのままで私を放置される方ではありません。

 9月半ばの事です。図書室に閉じこもって(祈祷室ではなく)万全の準備をした説教ノートを携え、チャペルの講壇に立ちました。その時、目に止まったのは、説教台におかれていた一枚のメモでした。 後で知ったことですが、寡黙で足に障害を持つ若い青年が、金曜日の夜、夢の中で天使のような人物が現れ、下記の詩を彼に手渡したそうです。初めての経験で驚き、内容の意味もわからぬまま、詩の文面を思い出し、私に読んでもらおうと、書き留めたのです。
その詩とは:

 “牧師、パンを投げていう、「いのちのパンなり、これを食らえ」と。
 宣教師、同じくして叫び、「急いで食らえ、世の終わりは近い」と。
 
 イエス近寄りて、パンを裂き、言った 「共に食せん」と。“

 何の変哲もない詩かもしれません。しかし私には「神の鉄槌」でした。名刺こそ印刷しませんでしたが、自分を「学生牧師」と公に名乗り、鼻高々にパン(聖書のことば)を会衆に投げていた自分が粉々になった瞬間です。(教団規則によると、「牧師」は正教師になってはじめて使える肩書きです。明かに規則違反でした。) 私の強烈な「ベテル経験」です。


 それから暫くして、再び、私は校長室に呼ばれました。何の前触れもなく、そこで手渡されたのが二枚の辞令でした。浜松基督教会に赴任の辭令(図-2)と補教師の辞令(図-3)です。1954年10月1日付けになっています。神学校にいなくても良いとも受け取れる通達でした。しかし今思えば、霊的に危険水域に達していた私を、「停学処分」にするのではなく、「仮認証」という特例を設けて下さったのは弓山校長・教団総理の温情であったに違いありません。私はベテルで「我に返り」、新しくされ、素直に神学校を後にすることができました。(写真-2)

(写真-2)学生牧師最後の礼拝 1954/10/03

それから67年経った今日、私はエル・ベテルの祭壇の前にぬかずいています。

(図-2)
(図-3)

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執筆者紹介

北野 耕一
きたの こういち  Kitano Koichi

日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団 巡回教師
前・中央聖書神学校校長

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