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信仰エッセイ「聖書の息遣い」②

日本語(Ⅱ)

信仰エッセイ「聖書の息遣い」
by 北野 耕一

私の母語は日本語です。
当たり前のことなのですが、私には当たり前でも、その日本語を習得するのに四苦八苦しておられる宣教師や留学生の姿をみると、同情を禁じ得ません。地球上にはざっと6900の言語があるそうです。その中で日本語の習得難度は中国語、アラビア語についで世界第3位にランク付けされていると聞きました。 (何を基準に比較するのかによって当然ランキングが上下するはずです。) いずれにせよ、厄介な日本語が、私のコミュニケーションの第一媒体なのですから、これほど有り難いことはありません。

 とは言うものの、日本語に誇りを持ち、順調な歩みで私の今日があるのではありません。1945年8月15日は多感な中学生の私にとって、地球が急に逆転しはじめたかのようなショッキングな人生の節目となりました。「きっと勝つんや(太平洋戦争に)」と単純に思い込ませられ、「死んだらアカンで」と励まし合いながら、一つしかない命を守るため、毎日を時間刻みで必死に生き延びてきた自分が、その日を機に、粉々に砕け、蝉の抜け殻のようになってしまいました。空襲警報におびえることもなく、防空壕に走り込むことも、また、低空飛行を繰り返しながらゲーム感覚で機銃掃射する戦闘機から逃げ惑うこともなくなったというのに、嬉しくも楽しくもない惨めな自分がそこにやっと生きていました。

 ヨブのように生まれた日を呪い,こんな目にあわせた母国を呪うという敗戦の後遺症に悩まされた時期がどれほど続いたでしょうか。感謝なことに、やがて主イエス・キリストの贖いに与り、私の出生地と母語を定めてくださったのは、外でもない、神の摂理であるという事実に気付かされたのです。「神の恵みによって今の私になりました」(1コリント15:10)としか言いようがありません。今も変わらずその自覚をもって新聞を読み、テレビの番組を視聴し、キーボードに日本語を入力しています。(英文と違って、いちいち変換しなければならない余分な手間には閉口していますが・・・)


さて、何が日本語習得をそれほど難しくしているのでしょう。

満員電車に乗っていた私の友人が、目的地に着いたとき「ころしてください」と叫んで周りの乗客を驚かせたことや、トラクトを配りながら宣教師が「およめになって下さい」と言ってそっぽを向かれたことなどは、笑い話ですませられます。しかし、宣教の情熱をもって日本に来られたのに、ことばの壁が余りにも厚く、途中で挫折した方々も少なくありません。

 日本語の用語の中で、日本語習得者を最も悩ませるのは曖昧表現と、丁寧語、尊敬語、謙譲語の使い分けだそうです。

 曖昧表現の典型的な例を一つ。「結構です」はその場の雰囲気、文脈、やり取りの内容次第で、受諾、称賛、それとも全く逆の拒否に用いられることがあります。日本人ならば、よほど鈍感な人でない限り、その場の雰囲気から言葉に出さない相手の本音を感知することができるはずです。そこには会話の音声以上の「何か」が働いているのです。こうしたやり取りの繰り返しの中で、「空気を読む」「以心伝心」「暗黙の了解」などの「何か」不可解なものを日本人は身に付けます。日本語習得者がその「何か」を会得するのに一苦労も二苦労もするのだそうです。匙を投げた方々もかなりいます。

 もう一つ。曖昧表現に関してしばしば取り沙汰されるのが主語抜き文章です。

「安らかに眠って下さい。再び過ちをくりかえしませぬから」。これは自らも被爆した広島大学の雑賀(さいか)忠義教授が浜井信三市長の依頼を受けて提案し、原爆死没者慰霊碑に揮毫した文章です。案の定、この碑文の主語はだれなのか、国内外で論争が噴出したそうです。この碑文を曖昧ととるか奥ゆかしいととるかは言語学を超えた領域の課題なのかも知れません。

 丁寧語、尊敬語、または謙譲語を適切に使用するため前提となるのは、先に少し触れたように相手と自分の立ち位置やその場の空気を感知するということです。そして丁寧語、尊敬語そして謙譲語の底辺にあるのは、相手を気遣う思いやりであるといえましょう。

 宣教師の友人と歩いていたときでした。「駐車ご遠慮願います」と書かれた張り紙に出合い、これはどういう意味ですかと尋ねられたので、説明すると、「それでは遠慮しない人は駐車してもよいのですね」との答えが返ってきました。確かに論理的にはそうかも知れません。私は「駐車禁止!!」とストレートに言いたくない張り紙の主の心遣いを感じたのですが・・・さて、これは丁寧語ですか、尊敬語、それとも謙譲語なのでしょうか。

 話しが逸れますが、私の娘の恩師であるハッセル・ブロック博士(Dr. H. Bullock)を中央聖書神学校のブロック講座にお招きしたことがありました。ブロック博士はホイートン大学の著名な旧約学者です。(現在は引退され、著作に専念されています。) 講義の中で同師は「聖書の解釈は科学であると同時に芸術である」と語られました。私の心に深く刻み込まれた一言です。知的に整理されたみことばの解釈だけでは十分ではないのです。聖書に向き合う姿勢の中に、心が揺さぶられ、神の愛に触れ、御霊の息吹きを感知するプラス・アルファがなければならないのだと、改めて気付かされました。

 2009年6月7日テキサス州フォート・ワースでヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクールが開催されていました。そこで辻井伸行さんが日本人として初めて優勝し、日本中を沸かせたニュースを記憶しておられる方々が多いと思います。しかも辻井さんは視覚障害というハンディを背負っての快挙ですから驚きです。ハワイ大学の吉原真理教授はこのコンクールでの印象を次のように評していました。「ファイナルに残ったピアニストたちは、誰もが強い音楽的主張をもっていた。中には自己中心的なメッセージのみが先行し、音楽はそのための道具に過ぎないとの印象を与える演奏もあった」と。しかし辻井さんについては、「実にまっすぐな解釈でありながら音楽的に洗練され、聴衆の心に訴える演奏なのだ・・・彼の演奏はあくまで誠実で深い人間性に溢れたものだった」と称賛されていました。完璧な演奏が賞を獲得するのでなく、聴衆の心にどれほど深く触れるかというプラス・アルファが音楽の世界には殊の外重要なのだということです。と同時に、もっと大切なことはそのプラス・アルファに鈍感な聴衆の一人になってはならないということではないでしょうか。

聖書から神のみこころを悟り、み声を聴き分ける私たちの姿勢はコンサートホールに座る聴衆よりはるかに真摯で、敏感でなければならないと反省させられます。

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執筆者紹介

北野 耕一
きたの こういち  Kitano Koichi

日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団 巡回教師
前・中央聖書神学校校長

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