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信仰エッセイ「聖書の息遣い」⑥

「愛すること」


信仰エッセイ「聖書の息遣い」⑥
by 北野 耕一

「死んでもいいわ」

 「死んでもいいわ。」愛の告白としては、少なからずどきっとさせる一言です。これは二葉亭四迷が、イワン・ツルゲーネフ(1818-1883)の作品『アーシャ(片恋)』に出てくるヒロインの告白、“I love you”をロシヤ語から訳出した表現です。名訳の一つにリストされ、直訳だと明治時代の読者には、はしたなく聞こえるのではないかと、相当苦労して考え抜いた上での訳文だと言われてきました。しかしどうもロシア語の原文に当たった方によると、「I love you」に相当するロシア語ではなく、消え入るような声で「あなたのものよ」と言った告白を、四迷は「死んでもいいわ」と訳したそうです。「あなたのものよ」や「死んでもいいわ」という言葉に込められた愛の思いは、それほどのコミットメントがあっても良いのではないでしょうか。彼の日本語訳を、ロシヤ語にそのまま逆訳すると、ツルゲネーフがどんな顔をするか見たいものです。ちなみに、逸話によれば、夏目漱石は“I love you”を、「月が綺麗ですね」と訳したらしいです。いずれにせよ、西欧人のように直球勝負で告白しない、いや、出来ない当時の恋心が、デジタル時代の現代人にまだ生きているでしょうか。
 小説家であり、翻訳家であった二葉亭四迷は、豊島区駒込の染井霊園に葬られています(享年48歳)。神学生時代、神召教会派遣の際には、必ずそこを通り抜けたものです。その記憶が、四迷への親近感を誘うので、本題から横道に逸れるようですが、ユニークな彼の名前の由来を紹介します。
 彼の本名は谷川辰之助(1864-1909)、江戸市ヶ谷の尾張藩上屋敷に生まれました。1887年(明治20年)に彼の処女作『新編浮雲』を出版しましたが、売りたい一心で、師である坪内逍遙の本名、坪内雄蔵の名を借用したのです。その動機の不純さを恥じ、自虐気味に己に向かって、「くたばって仕舞(シメ)え」と罵ったのが彼のペンネームになったと言われています。彼の父親から罵倒されたからだという説もあるようです。

愛情について

 ところで、世間でいう愛には欲情的な表現から、奥深い瞑想的な発想まで、様々な意義づけがなされてきました。私はこの欄で、辞書的な定義ではなく、聖書的な観点から、「愛」について、特に「愛する」という行為について考えてみることにしました。その前に、愛と愛情の間に線引きをしておきましょう。
 愛情は人間の心情から生ずるようです。容姿端麗な人や、可愛い赤ちゃんを見て心が揺すぶられ、それが対象に対する愛情を生みだすのではないでしょうか。しかし、愛情は周りの雰囲気に支配されやすく、いつまでも同じ新鮮さを保つのに苦労するはずです。喜怒哀楽の衣にいち早く着替える性格を持っているのです。熱くなったかと思えば、冷え込んだり、飛び跳ねたり、座り込んだり、とにかく愛情はお天気ものです。とはいえ、愛情は日常生活に色を添える大切な役目を担っています。
 この愛情についてですが、愛されたことのない人は、人を愛することができない、と主張される方々が心理学者の中におられるようです。私はそうとは思いません。人はこの世に生まれてきた以上、例え単発的であったとしても、誰かに愛されたはずです。しかし、現実的にシリアスな問題がそこに潜んでいます。世間には愛情を上手に表現出来る人と、下手な人がいるということです。それに加えて、愛情を敏感に受けとめることの出来る人と、そうでない人がいます。それぞれの組合せ次第によって、愛情感覚の温度差が著しく変動します。

動詞的な愛

 一方、愛は文学、道徳、哲学、宗教いずれの観点からいっても、人間のもっとも根本的な概念だと言われてきました。しかし、聖書は愛を単なる概念として取り扱ってはいません。「愛」という名詞は「愛する」という動詞に変換しなければ、それは死語になりかねないのです。その典型的な範例が、主イエスと律法学者との間に取り交わされた質疑応答と、それに続く「良きサマリヤ人」の譬え話に見ることが出来ます。トピックは「愛すること」、「永遠のいのち」、そして「隣人」でした。 (ルカ10:25-37)
 律法学者は、永遠のいのちを得るための条件を主イエスに尋ねました。主は彼の質問に直接回答しないで、逆に「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか 」(ルカ10:26)と切り返しています。相手は律法学者ですから、答えには窮しません。第一の戒めと、第二の戒めを得意げに復唱しています。そこで、主イエスは律法学者の急所を突くかのように「それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます」といわれました。それでもなお彼は自分を正当化しようとして、「私の隣人とは誰ですか」と食い下がるのです。この質問が「良きサマリヤ人」の譬え話ヘと展開します。
 舞台に登場するレビ人と祭司は「隣人」(強盗に襲われた旅人)を見て、二人とも道の「反対側を通りすぎて」行きました。言い換えれば、彼らのうちに認識されていたはずの「愛」の神学が、全く作動しませんでした。ところが一方ユダヤの律法に精通していたかどうか不明ですが、サマリヤ人の内にあった「愛」の瞬発力は見事でした。半死半生の「隣人」を見て、いち早く、走り寄り、介抱し、宿屋に連れて行き、費用の補償まで約束しています。これが聖書の説く動詞的な「愛」ではないでしょうか。愛があるかどうかではなく、愛するかどうかが、ここで問われているのです。
 ヨハネは「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです」 (1ヨハ4:7-新共同訳・口語訳*)と述べています。(*少々残念ですが、新改訳では「愛する者は」ではなく「愛のある者は」と訳しています。)ヨハネの論旨を借りれば、サマリヤ人は神から生まれ、神を知っていたことになります。犠牲的な愛の行為は、基督者にとって神を知るという、信仰生活に最も重要な霊的経験を生み出すということです。逆に「神を知っている」から「愛する」ことが出来るともいえます。

隣人の隣人

 「良きサマリ人」の譬え話の前後に、律法学者と主イエスは互いによく似た質問を交わしています。愛に関連した「隣人」についてです。まず、律法学者は「私の隣人とはだれですか」と尋ねました。彼の抽象的な問いに、主イエスは「良きサマリヤ人」の例話を持ち出しました。それには、上記の二人(祭司とレビ人)に加えて、旅人とサマリヤ人の四人が登場しています。主は譬え話を締め括るに当たって、「だれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか」と律法学者に問われました。この二つの質問に出てくる隣人には、本質的な相違があります。主は、律法が示す隣人とは明らかに別人格の隣人を想定しているのです。つまり主イエスにとっての関心事は、被害者としての「隣人」ではなく、支援者としての「隣人」でした。律法学者はここでも正しい回答を返しましたが、彼にはまだ欠けていることがありました。「あなたも行って、同じようにしなさい」と言う二度目の主の要求に応答することです。このように、主イエスは知的理解以上に、愛を実行に移す決断力を、私たちに求めておられます。
 このやり取りから、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という旧約の律法に、主イエスは新しい解釈を組み込まれました。異論があるとは思いますが、「自分自身のように愛する」とは単なる自己愛を指しているのではないということです。見て見ぬふりをして通り過ぎた祭司とレビ人にも自己愛があったはずですが、それが全く機能しませんでした。愛に瞬発力を持たせるためには、相手の状況に自分を投げ込まねばなりません。一歩距離を置いた同情(Sympathy)では十分ではありあせん。相手と一体化(Empathy)しようとする決意、それが「自分自身のように」という意味だと思うのです。つまり、目の前にいる隣人と自分を置き換えるということです。そこで初めて隣人のニーズを把握することが出来、サマリヤ人のように、次々と愛の適切な手当てが出来るのです。それが「隣人の隣人」になるという愛の行動ではないでしょうか。

アガペーの愛

 これまで私は何度となく「隣人の隣人」になることに失敗してきました。つい祭司とレビ人の後を追い、隣人の窮状から目をそらしてしまった自分を、恥じることが数多くありました。「愛する」と言う言葉は、響きが良いかも知れません。しかし十字架の痛みが、その言葉に裏打ちされていなければ、「隣人の隣人」になることは不可能です。「愛する」とは「死んでもいいわ」どころではありません。究極的には死ななければならないのです。それが神の愛であり、主イエスがカルバリーの丘で、十字架に架かり、私たち罪人の「隣人」になって死んでくださったアガペーの愛なのです。この愛をいただかなければ隣人を愛することが出来ません。「自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」(マタ16:24)と命令される主イエスに逆らって、小さな十字架(犠牲)を背負うことを避け、道の反対側を通り過ぎてはならないのです。十字架(痛み)の向こう側には復活(癒しと歓喜)が確約されているからです。

 「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」  (ピリピ2:6-8)

 

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執筆者紹介

北野 耕一
きたの こういち  Kitano Koichi

日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団 巡回教師
前・中央聖書神学校校長

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