信仰エッセイ「聖書の息遣い」⑩

「一言の神秘」


信仰エッセイ「聖書の息遣い」
by 北野 耕一


 何気ない一言が、誰かの救いの切っ掛けになったという証を、よく聞くことがあります。私もその一人です。学生時代、親しくさせていただいたM教授に道端で偶然出合い、「家庭教師の口があるのだが・・・」と声を掛けられたのです。その「偶然」がなかったなら、今日の私は存在しません。私にとって、その「偶然」は、神の「必然」だったのです。教授の口添えで、F家の次女の受験勉強を手伝うことになりました。取り決めを話し合う中で、奥様が、屋敷内にある下男部屋が空いているので、そこから大学に通ったらと、すすめて下さいました。家賃は要らないとのこと。但し、条件が一つ。毎週日曜日に、ご家族と近くの教会に出席するということでした。勿論、私は二つ返事で、そこに移り住むことに決めました。

 ところがです、初めての日曜日、御影の山手にある東灘神愛基督教会(現・御影神愛キリスト教会)の礼拝に出席し、正直“魂消(たまげ)”ました。厳かで、静粛な雰囲気を想像していたのと裏腹に、手拍子で賛美歌を歌い、ある人は絶叫に近い音声で祈り、説教にアーメンと合いの手を入れるなど、とにかく、節度がなく、騒がしいの一言に尽きる情景でした。何時でしたか、カトリックの信徒を、神学校のチャペルに誘ったとき、「動物園みたいだ」と洩らしていたのも、頷けます。しばらくは我慢して、奥様との約束を守っていましてが、少しずつ騒がしさの中にも、聖なるものを、感じるようになり、メンバーとの交わりを通して、神の愛にふれることが出来たのです。礼拝だけではなく、やがて、バイブルクラスや、祈祷会にも出席するようになりました。みことばに飢え渇き、むさぼるように聖書を読み始めました。そして、その年のクリスマス・イブに救いを体験し、翌年受洗、そして受霊、献身への召命に与ったのです。

私の洗礼式(司式者は、内村誠一師)

 さて、稀なケースですが、主イエスが一対一で、長い時間女性と対話をした事例が、ヨハネ福音書に紹介されています。(ヨハネ4:3-42) 場所はサマリアのヤコブの井戸端、時は正午。そこに、水を汲むため現れた女性に、 「わたしに水を飲ませてください」と主は腰をかがめて頼んでいます。その一言が、彼女の霊的覚醒につながったのです。そして、新しく生まれ変わった彼女の短い証言、「来て見て下さい・・・」が、サマリアのリバイバルの発端となりました。人目を憚って(はばかって)生活していた一女性が、救われ、潔められ、多くの同郷人を主のもとに導く証人に変身したという素晴らしい記録です。

 皮肉なことに、彼女の回心の契機になった主イエスの求めは、最後まで報いられていません。一滴の水も飲むことなく、この一件は幕を閉じます。主は旅の疲れで、喉が渇いていたことは事実でした。しかし、何よりも、彼女を対話につなぎ止めるために、その一言が必要だったのでしょう。いずれにせよ、ひとりの人を、救いに導く個人伝道法のテキストに取りあげたいような、奥深いことばのやり取りを、ヨハネは丁寧に綴っています。

 二人の対話をもう少し掘り下げてみましょう。主イエスの第一声は、生理的にごく自然な要求でした。しかし、サマリアの女は、主の願いに応えることをせず、ユダヤ人とサマリア人との間にある深い溝にこだわっています。それも主イエスには計算済みであったようです。ですから、主は、あえて目線を低くして、彼女に水を乞うたのでしょう。それに一つ気がかりなことがあります。大勢の中ならまだしも、ラビの立場にあるならば、男女が二人だけで会話をすることを避けねばならない慣習がありました。町から帰ってきた弟子達ですら、この情景に「驚いた」(4:27)ようです。しかし、彼らはあえて主を追求することはしませんでした。

 主イエスは種族間の社会的偏見にこだわる彼女の態度にお構いなく、「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう」と語っています。私が不審に思うことは、何故、主はご自分のことを「わたし」と言わないで、婉曲に「その人」と、三人称で彼女に語りかけたのだろうか、ということです。これも直球勝負ではなく、やんわりと彼女を包み込む主の知恵だったのかも知れません。興味をそそられた彼女は、単なるユダヤ人として接していた相手ではなく、ここで、「主よ」と呼称を切り替えています。しかし、それでも彼女は、「あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか」と、生理的な飲み水の意識から抜け出していません。主はここで、彼女を霊的な領域に引き上げようとされたのか、単刀直入に、「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」と語られました。「人」が「私」という人称に変わり、「飲み水」が「生ける水」に、飲み水を乞う者が、生ける水を与える立場に転じたのです。それだけではなく、「生ける水」は、他の人々をも潤す源泉となるというのです。それでもまだサマリアの女は、「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい」と、「生ける水」の真意を汲み取ることができていません。個人伝道の難しさを物語っているようです。

 ここで、主イエスの温和な態度が一変し、激しい口調で、しかも、彼女が求めた「生ける水」とは全く無関係に、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と命じたのです。それに対して、彼女は、自分の私生活に土足で踏み込まれたような不快感を持つことなく、「私には夫がいません」と、素直に応じています。すると、主は、「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです」と彼女の言葉が真実であると認めた上で、これまで五度も再婚(離婚?)を繰り返し、今は、夫でない男と同棲していることを、あからさまにしたのです。これまで全く面識の無かった一介のユダヤ人から、私生活の乱脈ぶりを暴露されたことに、怒りをあらわにするのでなく、彼女は、畏敬の念をもって主のことばを受け入れました。明らかに、彼女の中に霊的覚醒が起こりつつあることを示しています。主の一言の命令によって、「性」と「生」の束縛から解放され、「聖」の領域に引き入れられたのでしょう。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします」と前置きした彼女は、「私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」と、日常生活に必須の飲み水にこだわる意識が消え失せ、神への「礼拝」に対話の主題が急転回しています。

 それでも彼女の関心は、「礼拝」そのものではなく、ゲリジムの山か、エルサレムかと、礼拝の場所に注がれていました。そこで主は、「女の人よ、わたしを信じなさい」と、彼女を対話の核心に引き込み、真の礼拝について詳しく解き明かされました。そして主は、「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません」と締め括られました。そのことばで、開眼したのでしょうか、彼女は、「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう」と告白しています。すると、彼女に返ってきたことばは、「あなたと話しているこのわたしがそれです」でした。この一言が彼女に与えたインパクトは如何ほど強烈だったでしょうか。ヨハネは彼女の感情表現には触れていません。しかし、彼女の霊的な興奮状態を彼女が取った行動から読み取ることが出来ます。

 まず、彼女にとって日常生活の必需品である水がめを、主イエスの足もとに置いたまま、町に急いだこと、そして、主イエスが自分の私生活を暴露した事実を、恥じらいもなく人々に公言したことなどが、記録されています。それらの行動は、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」(2コリント5:17)という神の約束が、彼女のうちに実現したことを実証していると言えるでしょう。

 生まれ変わった彼女は躊躇することなく、サマリアの人々に宣言しています。「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか」と。彼女の証言は、少々あいまいに聞こえるかも知れません。それでも、この短い証しが、驚異的な結果を生むのです。ヨハネはこの情景を、「そこで、人々は町を出て、(ぞくぞくとー口語訳)イエスのもとにやって来た。」と描いています。サマリア人達はイエスと弟子達のいる井戸端に行っただけではなく「女のことばによって、イエスを信じた」のです。

 通常、誰かの情報を受け入れるには、その内容が真実であるという確証が要求されます。もしそれが立証されない場合、情報提供者が信頼に足る人物かどうかを知る必要があります。その人の経歴や学歴・経験が問われるでしょう。人柄や品性も評価の対象になります。しかし、彼女の素性をよく知っているはずの同郷者たちが、不道徳な生活をしていた彼女の口から発せられた言葉に疑いを挟むことなく、ぞくぞくと主のもとに来たという事実に驚きを禁じ得ません。極めて短い証しの内容にそれほどの牽引力があったのでしょうか。それとも、主イエスによって新しくされたオーラが彼女から発散していたのでしょうか。語った女と、それを聞いた人々の両サイドに聖霊が働いたのだとしか言いようがありません。一つ確かなことは、主イエスが彼女に約束された「永遠のいのちへの水」が、彼女からサマリアの人々の魂に流れ込んだということです。それにしても、主イエスの足もとに置いていった水瓶は、結局どうなったのでしょう。処分した方が良い・処分すべき「過去」があれば、それらを主イエスの足もとに置いてくれば良いのでは・・・、そうすれば新しくなりますよ、とサマリアの女が、私たちに囁きかけているような気がします。主の御前に過去をきっちり精算した者には、人を引きつける証しのことばが与えられるということです。

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執筆者紹介

北野 耕一
きたの こういち  Kitano Koichi

日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団 巡回教師
前・中央聖書神学校校長

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