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信仰エッセイ「聖書の息遣い」⑦

「濾過(ろか)された信仰」


信仰エッセイ「聖書の息遣い」⑦
by 北野 耕一

 私には、いまだに解答を得ていない疑問があります。それは、最後の晩餐にまつわる記録についてです。晩餐の席上、主イエスは、辞世とも言える天来の真理を、弟子達に連綿と説かれました。その中には、再臨の約束、真理の御霊についての解き明かし、互いに愛し合うことの必要性、弟子達と決別の予告、等々が含まれています。そして晩餐は、大祭司としての愛に満ちた執り成しの祈りで締め括られました。これほど重大な内容について、ヨハネ以外の福音書著者達が一言も触れていないのは何故か、ということです。

 それはそれとして、今回は、主の説話の一つ、「ぶどうの木のたとえ」(ヨハネ15:1-8)の中で語られた約束を、文字どおり見事に実現した一人の女性を紹介することにします。その約束とは、「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます」(ヨハネ15:7)です。つまり、主ご自身と、主のことばに「とどまる」という二つの条件がそろえば、「何でもかなえられる」という素晴らしい約束です。
 
 余談になりますが、ヨハネ福音書の著者は「とどまる(新改訳)、つながる(口語訳・新共同訳)」という用語(μένω)を誰よりも多く使用しています。新約聖書には約120回数えられますが、その内、56%もヨハネが用いています。内訳を見ると、ヨハネ福音書では40回、ヨハネの手紙には27回、ヨハネ15章だけでも12回といった具合です。ヨハネは、それほど主にとどまるという霊的な姿勢を重視したのでしょう。

 さて、今回の主人公はギリシャ人の女性です。悪霊に取り憑かれた娘のために、主イエスに癒しを求めるカナンの女が題材です。(マタイ15:21-28) 彼女の比類の無い信仰姿勢と、最後の晩餐後に語られた主イエスのことばを、重ね合わせてみようという試みです。いうまでもなく、彼女はヨハネ15:7の約束を、直接耳にしてはおりません。しかし、彼女の信仰姿勢は、主が弟子達のために語られたことばを、寸分違わず実行に移したということを実証したいのです。
 
 主イエスが宣教拠点であるカペナウムからツロとシドンの沿岸に退かれた時のことでした。一人の女が、「『主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます』と叫びながら主イエスに近づいてきた」、とマタイの福音書は伝えています。そもそも、「ダビデの子よ」と呼びかけて、主に癒しを求めたのは、盲人達(マタイ9:27)と彼女だけです。そのうち、異邦人は彼女だけだったようです。多くのユダヤ人ですら主イエスを軽蔑気味に「ナザレ人」、「大工の息子」と呼び捨てていたのに、一介の異邦の女が、全幅の信頼をもって、「主よ、ダビデの子よ」と叫んだのは驚きです。まさか「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタイ1:1)を知っていたはずはありません。いずれにせよ、自分の娘を癒してくれる方であれば誰でも良い、という散漫な願いではなく、この方しかいないという、的を絞った切実な信仰態度がこの呼びかけに感じ取れます。


 真剣な彼女の願いに対する最初の主の反応は、「沈黙」でした。通常、会話の中での沈黙は、無関心か無視、或いは拒否のどちらかです。しかし彼女はそのいずれとも受け取りませんでした。叫び続けたのです。言い換えれば主に「とどまり」続けたのです。うるさいと思った弟子達は、女を追い返すようにと主に願いました。ところが主の唇から出たことばは、なんと「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません」でした。明らかに福音の真髄に反する人種差別です。「女を追い返しなさい」とも受け取れかねません。この非道な発言は、彼女にも聞こえていた筈です。それでも屈しないどころか、「主の前にひれふして(原文では「ひれ伏し続けて」)、『主よ、私をお助けください』」と執拗に求め続けています。娘を癒して下さいという願いから、娘の母親である「私」をお助け下さいという祈りに徹しました。娘と母親が一体になっているのが伺われます。しかも、「ひれ伏して」、つまり礼拝の姿勢を取って懇願したのです。彼女のこの姿勢は、主を離さないという堅い意志の現れだと言えましょう。

 
 ところが、ここで主が初めてカナンの女に向かって直接投げかけたことばは、彼女の敬虔な姿に、平手打ちをするかのように、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです」でした。はなはだしい侮辱表現ではありませんか。(汚れた犬ではなく、子犬呼ばわりは、彼女に対するせめてもの、思いいやりだったでしょうか。) いずれにせよ、主にとどまろうとする彼女を、主イエスの方から切り捨てようとする手厳しい仕草にしか見えません。それでも、彼女は諦めていません。驚くことに彼女は、「主よ、そのとおりです」と、抗う(あらがう)ことをせず、主のことばを素直に受け入れました。
  
 
 「わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら…」という、もう一つの条件を見事に満たしたといってよいのではないでしょうか。情勢が変わると、いち早く主から離れていった弟子達とは対照的です。彼女は、主のことばをそっくりそのまま受けとめ、更に続けて、「ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」と、即座に応じました。どこからこのひらめきが来たのでしょう。パンを投げてもらう機会がなくなった今、比喩とはいえ、パンの屑が食卓からこぼれ落ちてくる確率は、限りなくゼロに近いにもかかわらず、待ち続けるという彼女の粘りの信仰が見えてきます。健気な彼女の信仰に応えた主のことばは、「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように」と、これまでとは打って変わった称賛でした。そして、娘は直ちに癒されました。
 

 「主よ、ダビデの子よ」と主イエスに駆け寄ってきたカナンの女が、「あなたが願うとおりになるように」という主の答えをいただくまでの物理的な時間は、それほど長くは無かったでしょう。しかしこれでもかこれでもかというハラスメント(?)を受ける彼女にとって、余りにも長すぎるプロセスであったに違いありません。彼女の信仰が結実するまでの過程は、丁度、汚物の混じった濁水が一滴一滴、時間をかけて濾過器の幾重にもあるフィルターをとおり、透きとおった飲料水に変身するようなものではないかと思わされます。彼女のように、主にとどまり続け、主のことばにすがりつく信仰姿勢があってこそ、「何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられる」のです。信仰の結実には近道はありません。途中下車をしてはならないのです。

 
  神は、私の行く道を知っておられる。私は試されると、金のようになって出て来る。 (ヨブ 23:10)

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執筆者紹介

北野 耕一
きたの こういち  Kitano Koichi

日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団 巡回教師
前・中央聖書神学校校長

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