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信仰エッセイ「聖書の息遣い」③

ごっこ遊び


信仰エッセイ「聖書の息遣い」③
by 北野 耕一

私が小さい頃、よく「ごっこ遊び」をしました。
空想の世界の中でいろんな人物や動物などに変身して楽しむ遊びです。「ままごと」もその一つです。大人をも巻き込む近頃の複雑なデジタル化したゲームに比べると、たわいのない原始的な遊びでした。5歳だったか6歳だったか、私の得意技は盲腸の手術でした。いやがる友人を無理矢理患者に仕立て、医師のまねごとをしたのを覚えています。テレビのない時代、その上、家族に医師や看護師のいない我が家で、外科医の真似事をする材料をどこから仕入れたのか、未だに不明です。

 そもそも「ごっこ遊び」は自分ではない者に自分を置き換えるということから始まります。少し小難しく説明すると、「ごっご遊び」とは、まず自分を客観視し、仮想の人物の役割を内面化し、それを行動に表現するということです。そのようなややこしいことを、あどけない子供が台本なしに、どうしてごく自然にやってのけるのでしょうか。私はそこに神のみ手を感ずるのです。「ごっこ」能力は創造主である神からの授かり物ではないかと。更に突っ込んでいえば、創世記に明記されている「神のかたち」の一部ではないかと。

 話しが変わりますが, 私は1950年のクリスマス・イブに主イエスを救い主として受け入れました。最初に手にしたのは文語訳の『舊新約聖書』でした。文章が美しく、格調高い文体で、未だに幾つかの聖句を新しい訳と入れ替えることが出来ず、口ずさんでいます。数年後に口語訳が、しばらくして新改訳が出版されましたが、中々なじめませんでした。特にピリピ人への手紙2章5節がそうでした。「汝等、キリスト・イエスの心を心とせよ」です。ギリシャ語テキストの原意にどれほど忠実であるかどうかという課題はさておいて、簡潔で、インパクトのあるこの文体は、今でも私にとって霊的鍛錬の重要な羅針盤です。新改訳2017版では、「キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい」と訳されています。口語訳、新共同訳も似たり寄ったりです。

 とはいえ、響きが良いからというだけで、私がこの文語訳にこだわっていたのではありません。いずれにせよ、この聖句は私に重要な問題を突きつけました。「キリストの心を心とする」ことは現実に可能なのか、可能ならばその手立ては何か、という問いかけです。そして満足のゆく答えにたどり着くのに苦労しました。まず一つ言えることは、実現不可能な霊的体験をパウロが勧めるはずはないということです。そこからスタートして、キリストの心を心とする可能性の聖書的根拠を何とか捜し出しました。そのうちの二つを取りあげることにします。

① 人間創造の経緯から

 素材ゼロという真空状況の中、「ことば」の神は「ことば」によって人類の生存に必要な環境を調えてくださいました。その上で、「神は人をご自身のかたちとして創造された」(創1:27ー新改訳2017)のです。私たちは、「神のかたち」に創られた最初の男女の末裔です。だとするなら、自分がどれほど欠陥だらけでも、心身ともに虚弱病弱でも、誰からも見放されたと思っている孤独な人物であったとしても、あえて言うなら、大罪人であっても、「神のかたち」は全面消滅していない筈です。私たちは人間である以上、自分を振り返ることが出来ます。また、他人の思いを察知し、感情の動きに共感することも出来ます。「神のかたち」の片鱗が残されている証拠だといわざるを得ません。

 アダムとエバが裸であることを誰が彼らに知らせたのでしょうか。何故、彼らは神の御顔を避けて、園の木の間に身を隠したのでしょうか。(創3:7,8) 預言者イザヤの唇が汚れているのを指摘したのは誰だったのでしょうか。(イザヤ6:1-8) 放蕩息子が「我に返った」きっかけは何だったのでしょうか。(ルカ15:17-19) これらの例は明らかに「神のかたち」が作動し始めたことを物語っています。「神のかたち」が残されているということは、すなわち、「キリストの心を心とする」基本的(霊的)メカニズムが、人の心に設定済みであるということにほかならないのです。ただし、新生体験無しに、また、聖霊の働き抜きには「キリスト心を心とする」ことは出来ません。

② 主キリスト受肉の経緯から。

 「ことば」の神が、「ことば」のままであったなら、キリストの心を心とすることは永遠に不可能だったでしょう。「ことば」が人となってくださった<端的にいえば、神が人の心を心としてくださった>からこそ、私たちはキリストの心、すなわち、神のみ旨を知る道が開かれたのです。しかし、そのため、主キリストご自身が十字架に架けられるという残酷非道な代償が払われなければなりませんでした。

 使徒パウロは、その「キリストの心」の真髄をリアルに描いています。

キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。 (ピリピ2:6-8)

 私たちにとって「キリストの心」を心とする道は、決して平坦ではないでしょう。いや、むしろ十字架の痛みの道こそ、「キリストの心」に触れる契機になるのではないでしょうか。主キリストは弟子達に「自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」(マタイ16:24)と要求し、パウロは、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2:19.20)と告白しています。「キリストの心」を心とすることと十字架の道は切り離すことが出来ないのです。

 ゴルゴタの丘で主イエスとともに十字架に架けられた犯罪人の一人は、「イエス様。あなたが御国に入られるときには、(あなたが御国の権威をもっておいでになる時にはー口語訳)私を思い出してください」(ルカ23:42)と願いました。彼の心には「今」の主イエスの姿ではなく、「やがて」の主が映し出されていたのでしょうか。主イエスはすぐそれに応え、「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」(ルカ23:43)と約束されました。死の影の谷を通りながら、「キリストの心を心」とすることによって、御国を垣間見たこの犯罪人は、私の大切な師匠の一人です。また、主イエスにとっても、パラダイスヘの道程は独り旅ではありませんでした。

執筆者紹介

北野 耕一
きたの こういち  Kitano Koichi

日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団 巡回教師
前・中央聖書神学校校長

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