「神の時」
信仰エッセイ「聖書の息遣い」⑤
by 北野 耕一
昔も今も時の刻みには変わりがない筈ですが、物心がつき始めた頃を思い返すと、当時は、時間がゆっくり流れていたように感じます。はじめて腕時計を手首に巻いた時、急に大人になったような気分になったのを忘れることができません。時報に合わせて竜頭を回し、時間の調整をするのも楽しみの一つでした。そういえば、その頃の腕時計には秒針がありませんでした。振り子がチクタクと可愛い音を立てて眠気を誘っていたアナログ時計の座を、デジタルウオッチが奪いとって久しくなります。競技の世界では0.01秒の差でメダルを逃すこともあり得るようです。大袈裟に言えば、秒単位で小走りに物事が進む近代社会での生活リズムに、体内時計が悲鳴をあげているのは私だけでしょうか。とはいえ、21世紀の1秒と、創世期時代の1秒に差異があるはずはありません。勿論、地理的な位置によって時刻の表記が違ってきますが、時間それ自体は変わりません。
ここで私たち家族が経験したエピソードを一つ。
宣教師としてフィリッピンに着任するためホノルルから客船に乗りました。1971年8月のことです。太平洋を航海中、船長が乗客に「明日午後○時○○分に、船を停めボートを下ろして釣りをするから、希望者はサインアップするように。」とアナウンスがあり、大喜びの男性達数十名が参加をすることになりました。ところがその時間がきても、船を停める様子がないので、乗客達が船長に問いただしたところ、船長は「只今、日付変更線を通過しましたので、皆様の時計を日本時間に合わせて下さい。」と説明しました。つまり時差によって、その日のその時刻が来なかったのです。(生真面目な日本人船長には考えられないユーモアです。)
時間は私たちの生活に密着している重要な存在ですが、いざ時間とは何かと問い詰めて行くと、迷路に入ってしまい、適切な答えにたどり着かなくなります。何故なら時間を理解するのに哲学、心理学、物理学、宇宙論など様々な切り口があり、それぞれ異なった結論を提示しているからです。例えば、哲学的に論じると、時間は「人間の感性にそなわった主観的な形式」(インマヌエル・カント:1724-1804)であり、理論物理学の見地からだと時間は「伸び縮みする相対的存在」(アルベルト・アインシュタインアイン:1879-1955)だということです。しかし、ごく最近の量子重力理論は「時間は存在しない」(カルロ・ロヴェッリ:1956ー)と結論しています。ここまでくると、私は宇宙人の町中で迷子になったような幻想に陥りそうになります。(*ちなみに、ロヴェッリの著作、『時間は存在しない』 <NHK出版、2019年>は、タイムス誌の「ベスト10ノンフィクションに選ばれています。) このエッセイでは時間を「どこでも均一に進む絶対的存在」と簡単明瞭に定義したアイザック・ニュートン(1643-1727)の常識的な時間理解レベルに留まることにします。ニュートンは哲学者であり、数学者、物理学者、神学者でもありました。
ここで少々横道に逸れますが、お許し下さい。私の「時」は他の人と全く変わることがなく、過去から未来へと間断なく移動しています。そして、私の過去と未来の接点である「今」を止めたくても止めることができません。時計の針を調整できても、時間の流れは不可逆なのです。ですから、私の過去は「余命」という私の未来を刻々と侵食し続けています。それに伴い、体力が低下し、思考力が減退するのは当然です。しかし、私の意識は不可逆的な時間に逆らって、過去の出来事に立ち返ることができ、また、まだ実現していない未来の出来事に思いを馳せることができるのはどうしたことでしょう。それにしても、私の心臓が、よくもこれまで一服することなく、20億回に近い心拍数で、地球を二回りもする体内の血管に血液を忠実に送り込んでいたとは驚きです。只々、創造主のみ前にひれ伏すのみです。私を時間の世界に生みだし、私の日常を見通し、私の持ち時間の最後を支配して下さるインマヌエルの神と共に私に許されている「今」を積み重ねていこうと心に決めております。やがて時間の束縛から解放される「神の時」がきます。それは過去と未来が消滅した「今」だけの「今」です。(黙21:4) 言い換えれば「永遠の今」、「栄光の今」に生きる聖なる望みです。
さて、伝道者(コヘレト)の書に著者は「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」(伝3:1ー新共同訳)と述べています。そこには意味を異にする「時」が二度描出されています。ギリシャ語訳旧約聖書(『セプチュアギンタ』ー70人訳)*によると、最初の「時」は一般的な時間や期間を指すクロノス(χρόvος)が充当され、「定められた時」には人間の生活行為に密着した時や社会的な事象の起点を意味するカイロス(καιρός)が訳語として用いられています。それに続く2節以降の、「生まれる時、死ぬ時、泣く時、笑う時、愛する時、憎む時…戦いの時、平和の時」など28項目はすべてカイロスです。しかし、クロノスとカイロスは無関係な存在ではなく、時間の横の流れ(クロノス)に、出来事が縦に交差するのがカイロスだと、私は理解しています。そして神のカイロスを示す聖句11節が続きます。*ヘブル語原文の解説をすべきですが、私はヘブル語が読めません。
最初の一行だけを切り取って読むと、神の救いを体験すれば、バラ色に輝く人生が約束されているかのように勘違いするかも知れません。しかし、バラ色一色では美しい絵にはならないのです。むしろ伝道者の書の全体像をみると、灰色の人生しか見えてきません。何度も何度も「空しい」という表現が繰り返されています。(31回) それだけに3章11節が際立って目立つのでしょう。
北野耕一先生の”時”を証しする写真
「神のなさることは、すべて時(時宜ー新共同訳)にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を(永遠を思う心をー新共同訳)与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」
コヘレトの書(伝道者の書)3章11節
コヘレトの言葉をそのまま体現した聖書人物が何人もいます。そのうちのひとりが波乱万丈の生涯を送ったヨセフでした。(創37-50) 残忍非道なハラスメントを繰り返したあげく、弟を奴隷に売り飛ばした兄達と奇跡的な再会をしたその時、ヨセフは彼らに向かって、優しくこう言ったのです。「私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました…私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。」(創45:5-8) と。その日までの22年間、ヨセフの身に起こった出来事の大半は、ヨセフにとって「美しい」とは真逆の熾烈な試練の連続でした。しかしそれら一つ一つは神のカイロス、すなわち「神の時」だったのです。それを意識し、過酷な環境に耐えることが出来たのは「主がともにおられたので」(創39:2,3,21,23)という確固たる霊的確信があったからでしょう。それだけではなく、ヨセフの主人、監獄長、そしてファラオ王までもヨセフとともにおられる神の臨在に触れたようです。このようにヨセフを通して神のカイロスが、イスラエル民族の存続に大きく寄与したのです。
私の人生の彩り(いろどり)を美しく仕上げて下さるのは、私を今日まで生かして下さった神ご自身です。それでは、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」という判断は何時できるのでしょうか。キリストの心を心として私の人生を振り返った時です。
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