「幸福VS祝福」
信仰エッセイ「聖書の息遣い」⑨
by 北野 耕一
待降節の週となりました。教会学校の子供たち、中でも女の子は、恒例の降誕劇を前にして、誰が主役のマリアに抜擢されるかと、小さな心臓をドキドキさせる時期でもあります。今回はそのマリアに間接・直接向き合った二人の母親の対照的な姿について一考して見ようと思います。一人は、マリアについて主イエスと言葉を交わす市井(しせい)の母親、もう一人は、受胎告知を受けたマリアの来訪を歓迎する女性エリザベツです。彼女は年老いて懐妊し、4ヶ月ほどで母親になろうとする祭司の妻でした。
主イエスが悪霊を追い出すのを目撃し、それを詰(なじ)る人びとに対し、言い返すことができないまでに説得する主に感動した女性は、「声を張り上げ」(口語訳)て叫んでいます。「あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は幸いです」(ルカ11:27)と。彼女が母親であったかどうかは明記されていません。しかし、母親であるか、それとも、母親になろうとする者でなければ、そのような叫びは出てこなかったはずです。或いは、期待したように息子を育てられなかったからか、詳細はわかりません。
いずれにせよ、自分の息子の出世、成功を願わない母親は何処にいるでしょうか。ヨハネとヤコブの母親も主イエスに、「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい」(マタイ20:21)と願ったのもその好例です。ともかく、母性本能から発したごく自然な彼女の思いを、「幸いなのは、むしろ神のことばを聞いてそれを守る人たちです」(ルカ11:28)と、主は諭されたのでした。原文の「いや、むしろ」は、『織田昭ギリシャ語辞典』によると、誰かの言葉に同意して強調する場合と、訂正して追加する場合の両面の用法があるとのことです。ですから、主イエスは、彼女を頭ごなしに叱りつけたのでないことは確かです。主は、母性本能を全面否定されたのではありません。
主イエスがこの場面で示されたのは、この世の幸いと天来の幸いの対比でした。同じ表現の「幸い」でも、その中味は全く異なります。下からか上からかの違いです。とは言え、世的な幸福観は中々の曲者です。自分の領域内(ヘンリー・クラウド、ジョン・タウンゼントは『境界線』と名付けた概念を紹介しています。)で幸福の条件を設定し、おとなしく身の丈にあった幸福観を味わっている間は良いのですが、そこからはみ出すと、母親同士の親密な関係が案外容易に崩れてしまいます。それどころか、ママ友カーストの格付けが始まり、それが、子どもまで絡めるいじめに発展し、多くの母親はストレスに悩まされることになります。勿論、これは母親に限ったことではありません。幸福でありたいという純粋な願望に、少しでもねじれが生じると、不適切な競争心が生まれ、それが紛争を呼び、エスカレートして闘争となり、果ては、国家間の戦争にまで発展しかねません。他愛もない小さな願望が、一歩間違うと、大きな争いに連鎖する火種となりかねません。主イエスは、道端で叫んだ母親に、真の幸福の原点を示されたのでした。
さて、もう一人の母親は、前述したように、祭司ザカリヤ妻エリザベツです。アロンの子孫である彼女は、老齢になり、胎が閉ざされたままでした。しかし、夫ザカリヤが神殿の中で、香を焚く祭司の務めをしていた最中に、御使いガブリエルが彼に現れ、妻が懐妊することを告げます。懐妊告知の事例は旧新訳聖書に幾つか記述されていますが、ザカリヤに対する告知には、他に例を見ない特徴があります。
横道に逸れるようですが、その特異性に目を向けてみましょう。何よりも、御使いの告知は、他のケースに比べ、極めて詳細にわたる内容であったということです。ガブリエルは、妻の奇蹟の懐妊を皮切りに、生まれてくる男の子の名を指定しています。しかも、それが常道から外れた名でした。御使いは更に、彼がどういう人物になるか、また、彼の生活習慣や、霊的な素質、そして、救い主キリストの宣教を準備する重要な「露払い」の役目を果たすことなど、事細かに説明しています。驚くべき啓示を体験したにもかかわらず、不信仰が原因で、残念なことにザカリヤの口が利けなくなってしまいました。
祭司の職務を終えたザカリヤは帰宅後、どのような手段で、御使いガブリエルから受けた啓示の内容を、妻エリザベツに伝えたのか、聖書は一切触れていません。夫婦共々、もどかしい10ヶ月であったことでしょう。ともあれ、告知通り、エリザベツが懐妊しました。意志の疎通が十分でできないにも関わらず、二人の間に共有できた確固たる結論は、生まれてくる息子の名を「ヨハネ」と名付けるのだということでした。それは当時の慣習に反することでもありました。
そのような状況の中で、妊娠6ヶ月のエリザベツは、彼女と同様、ガブリエルから受胎告知を受けたばかりのマリアと、劇的な邂逅を経験するのです。生理的にはあり得ない、社会的にはあってはならない、歴史的には前代未聞の処女の受胎、そして、その胎に宿すのは、人類の救い主であるという、途方もない事実を抱えたマリアの来訪です。ルカは、この二人の母親の出合いを、美しい筆致で、次のように伝えています。
それから、マリアは立って、山地にあるユダの町に急いで行った。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。エリサベツがマリアのあいさつを聞いたとき、子が胎内で躍り、エリサベツは聖霊に満たされた。そして大声で叫んだ。「あなたは女の中で最も祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。 私の主の母が私のところに来られるとは、どうしたことでしょう。あなたのあいさつの声が私の耳に入った、ちょうどそのとき、私の胎内で子どもが喜んで躍りました。主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」(ルカ1:39-45)
私はマリアの「あいさつ」に反射的に反応するエリザベツの預言的な洞察力に衝撃を憶えます。「あいさつ」は挨拶です。「いきさつ」ではありません。そうだとすれば、マリアの「シャローム」が耳に入ったその瞬間、「子が胎内で躍り、エリサベツは聖霊に満たされた」ということになります。ちなみに、ルカはこの段落の中で3回も「あいさつ」を繰り返しています。マリアの「あいさつ」の意義を強調しているかのように思えてなりません。やがてマリアの胎から生まれる主イエスに洗礼を施すことになるヨハネが、母の胎内で「喜んで躍った」のも頷けます。
一方、受胎告知を受けたばかりのマリアに、身体的な妊娠の兆しなど、あろうはずがありません。また、マリアが「主の母」であることを誰が彼女に知らせたのでしょうか。聖霊以外の誰でもありません。戸惑いがまだ残っていたかもしれないマリアの心が、エリザベツの、祝福に満ちた超自然的な宣言によって整理され、この後すぐ、見事な賛歌(ルカ1:46-55)を詠んでいます。許婚のもとにではなく、ナザレからユダの山地まで100キロ(ある聖書学者の計算によれば)の険しい道のりであったとしても、エリザベツに会う決心をしたことは、正しい決断でした。もし、マリアが別の道を選択していたなら、世界の歴史は、大きく変わっていたことでしょう。 エリザベツの貢献も計り知れません。彼女は、私たちに幸福(happiness)ではなく祝福(blessedness)の在りどころを教えてくれたのですから。
「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」(ルカ1:45)
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