
福士 威
霊を引き上げる「異言の祈り」
異言で語る人は自らを成長させますが、預言する人は教会を成長させます。
コリント人への手紙第一14章4節
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

「異言で語る人は自らを成長させますが、預言する人は教会を成長させます。」
コリント人への手紙 第一 14章4節
このみことばは、教会の一致と成長というテーマの文脈で語られています。しかし、私はこのみことばから、異言で祈る恵みを受け取ることができました。その恵みとは、異言の祈りは霊を引き上げるものであることを知れたというものです。
私はかつて、「異言の祈り」とは霊が引き上げられてから自然に出てくるものだと思い込んでいました。
まず私が聖霊のバプテスマを受けたのは、高校2年生の時でした。その日はペンテコステの日であり、礼拝の中で聖霊の力を求めて祈る時間がもたれました。その時、牧師夫人から罪の告白を促されました。私は、自分が高慢であったことを告白しました。すると、あるイメージが見えました。それは、誰かが白いドアを開けて入ってくる瞬間のイメージでした。それと同時に、私の口から異言が出てきて、聖霊のバプテスマを受けることができました。
しかしその後、一人でいる時に異言で祈るということはなかなかありませんでした。なぜなら、異言とはキャンプや聖会などで霊的に高められた時に出てくるものだ、と思い込んでいたからです。
数年後、何気ない日常生活の中で、私はふと「異言で祈ってみたい」と思う瞬間がありました。確かそれは車を運転中の時だったと思います。その時、異言での祈りを試みてみました。すると、非常につたないながらも、異言での祈りをすることができました。それはまるで赤ちゃんが言葉を覚え始めたようなものでした。そのあと、何度も異言の祈りをしていく中で、少しずつ流暢になっていくのを感じました。
今では普段の生活の中で、ふとした瞬間に異言で祈ることがよくあります。車を運転している時や、洗い物をしている時、お昼ご飯を食べる時など、生活のあらゆる場面で、短い時間でも異言の祈りに導かれています。
異言の祈りはもっと身近なものであり、「霊が引き上げられてから祈る」というより、「霊が引き上げられるために祈る」祈りであることを日々の生活の中で実感しております。
聖霊が、異言の祈りを通して、自分をますますイエス様に似た者へと成長させてくださることを感謝し、その恵みをますます味わっていきたいと思います。



福士威 師のオリジナルワーシップソング


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※教会名は、掲載時点のものです。

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